竹内敏晴は「ことばが劈かれるとき」で、メルロ・ポンティの「幼児の対人関係」の中の「自他は一つの系の二つの項である。」ということばを取り上げている。
そして、「何カ月かたって、レッスンしているとき、ふと私は気がついた。ー自分のからだの動きが向かい合っている相手に移って、新しい動きができるようのなる、あるいは相手の動きが自分の方に移ってきて、相手のからだの歪みなりとどこおりなりが感じとれてくる、そして、自他の激しい気合の交錯の中で微妙に反応しあうとき、変貌が起こる。このときはもう、自とか他はもうなくなっている。他の動きは自と一つに溶けあい、自の呼吸が他を生気づけている。―これはあのメルロ・ポンティの言ったことの証ではないか?」(p113)と述べている。
メルロ・ポンティの「幼児の対人関係」からいくつかの箇所を引用してみよう。
「したがって、ここでわれわれに与えられているのは、今日の心理学の用語でいうなら、<私の行動>と<他人の行動>という二つの項をもちながら、しかも、一つの全体として働くような<一つの系>なのです。」(p44)
「-自己や他人というものが絶対的に自己意識的なものであって、両者は相互に絶対的独自性を主張し合うものだとはじめから仮定してしまっては、もう他人知覚を説明することはできなくなってしまうだろう、と。反対に、幼児がまだ自己自身と他人の区別を知らない状態のときでさえ、精神の発生が始まっているのだと仮定すれば、他人知覚も理解できることになるのです。もちろん、自己と他人の区別がないとすれば、幼児が本当の意味で他人と交通しているというわけにはいきません。本当の<交通>が存在するためには、まじわっていく人とその相手の人とが、きちんと区別されていなけばならないはずです。が、それにしても、最初は、他人の志向がいわば私の身体を通して働き、また私の志向が他人の身体を通して活動するといった『前交通』の状態があるに違いないのです。(p45)
「したがって、幼児の発達は、ほぼつぎのような様相を呈することになりましょう。まずわれわれが『前交通』と呼ぶ第一の段階があるわけですが、そこにあるのは、個人と個人の対立ではなく、匿名の集合であり、未分化は集団生活です。次に、こうした最初の共同性を基盤にして、一方では自分自身の身体を客観化し、他方では他人を自分とは違うものとして構成するというふうにして、個人個人が分離され、区別される段階が来ます。」(p46)
「最初の自我は、このように自分というものを何も知らないし、それだけ自分の限界もわかっていないわけですが、それに反して、成人の自我は、自分自身の限界を知っておりながら、同時に本当の意味での共感によってそこを越え出る能力をも合わせて持った自我になっていきます。この共感は少なくとも比較的な意味では当初の共感とは異なっているはずです。当初の共感は、<他人知覚>よりはむしろ<自己に対する無知>にもつづいていたわけですが、成人の共感の方は、「他者」と「他者」とのあいだに起こるものであって、自己と他人の相違が消滅することを前提とし成り立つようなものではないからです。」(p47、p48)
メルロ・ポンティは、「<私の行動>と、<他人の行動>という二つの項を持ちながら、しかも一つの全体とし働ような<一つの系>なのです。」ということは述べている。
しかし、彼は自己や他人が絶対的に自己意識的なものではないことを述べていますが、「自己と他人の区別がないとすれば、幼児が本当の意味で他人と交通しているとは言うわけにはいきません。本当の<交通>が存在するためには、交わっていく人とその相手の人が、きちんと区別されていなければならないはずです。他人の身体をそれにしても、最初は、他人の志向がいわば私の身体を通して働き、また私の志向が他人の身体を通して活動するといった『前交通』(マックス・シェーラー)の状態があるに違いないのです。」とも述べている。
さらに、「最初の自我は、このように自分というものについて何も知らないし、それだけ自分の限界も判っていないわけですが、それに反して成人の自我は、自分自身の限界を知っておりながら、同時に本当に意味の共感によってそこを越え出る能力を合わせもった自我になっていきます。この共感は、少なくとも比較的な意味では当初の共感とは異なっているはずです。当初の共感は、<他人知覚>よりはむしろ<自分に対する無知>にもとづいていたわけですが、成人の共感の方は『他者』と『他者』とのあいだに起こることであって、自己と他人の相違が消滅すること前提として成り立つようなものではないです。」と述べている。
竹内敏晴は、「・・・このときもう、自とか他はなくなっている。他の動きは自と一つに溶けあい、自の呼吸が他を生気づけている。ーこれはあのメルロ・ポンティの言ったことの証ではないか?」と述べているが、メルロ・ポンティによると、「自己と他人の区別がないとすれば、幼児が本当の意味で他人と交通しているというわけにはいきません。本当の<交通>が存在するためには、交わっていく人と、その相手の人とが、きちんと区別されていなくてはならないはずです。が、それにしても、最初は、他人の志向が私の身体を通して働き、また私の志向が他人の身体を通して働くといった『前交通』の状態があるに違いないのです。」ということである。
これは竹内敏晴の誤読なのであろうか?
竹内敏晴は続けて、「今まで他者は、つねに私の憧れであった。少しずつこえとことばが劈かれるにつれて、他者は私に向かって姿を現わし、かつ近づいてきていたけれども、なお、遠くより来るもの、異形のものであった。それに真にふれなければ、自分が新しく劈かれることはないのあろうと予感しながら、ついおびえて尻込みする。私が憧れていたことは、—ある意味では、いまだに変わらずそれが続いているのだがー自他が合一しきっているという確信に支えられて、勝手自在にふるまい、ふれあい、そして、自己を超出すること、とでも言ったらよいのだろうか。その充実しためくるめくような幸福感ーそれこそ創造の名に値するー。」(p113,114)と祝祭のレッスンと彼が呼ぶレッスンを語っている。
竹内敏晴は幼児ではない。しかし、重篤な聴覚言語障害があったために、「他者」が現れて来る過程を、自覚的に認識しながら進んできている。
それにしても彼のいう「自他の合一」は、自と他の区別の以前のものではないか?「その充実しためくるめくような幸福感」を示している写真がある。安海健一さんが撮った、竹内演劇研究所のクラスでの稽古場面の、竹内敏晴の表情である。能天気なほどの開けっ放しの表情で、幸福感を示している。
しかしながら、次のことに注意しておかなければならない。この稿の最初の竹内敏晴のものの引用で、「-自分のからだの動きが向かい合っている相手に移って、新しい動きができるようになる、あるいは相手の動きが自分の方へ移ってきて、相手の歪みなりとどこおりなりが感じ取れてくる、そして、自他の激しい気合の交錯の中で微妙に反応しあうとき、変貌が起こる。」とある。
「自他の激しい気合の交錯の中で微妙に反応しあうとき、変貌が起こる。」のである。この「自他の激しい気合」ということばは、竹内敏晴のレッスンの集中した状態を意味してる。そして、あとの方の引用でも「自己を超出すること、とでもいったらよいのだろうか。」と述べている。自と他の区別以前の『前交通』のような状態から、深い集中状態の中で、一気に変貌や超出が生じるのである。
このことが竹内敏晴のレッスンの非常に特異な特徴である。
竹内敏晴の集中力は凄まじい。彼は13才のときから弓術を始めている。耳が悪化して、ほとんど聞こえなくなった時期である。「ことばが劈れるとき」から引用しよう。
「確か十九歳の秋、私は絶好調であった。弓をいっぱいに引きしぼって、的をぴたっと狙う。狙うと的は大きく見える。大きく見えるというのは、三十メートル先の的が三十メートル先で大きくなるのではない。ぐんと近づいてくる。・・・この秋の絶好調のときには、、ぴたっとからだがきまったとき、的に向かって弓を押している左手、つまり弓手が的の中に入っているように見えた。的が弓手のこぶしより手前に見える。これでは、はじめから矢先が的の中に入っているわけだから、これはまあ、外れっこない。事実こういうときには絶対外れない。・・・・・・
メルロ・ポンティのことばをかりれば、『遠ざかりゆく事物との距離とは』『事物がしだいにわれわれのまなざしの手がかりからすべりおちてゆき、両者の結びつきが徐々に厳密さを失ってゆくこと示しているにすぎない。』のであり、われわれが結びつきを回復するとき、事物との距離はなくなるーつまり集中がある頂点に達したときに、的と自分とは一つになるということだろう。そのとき的はまざまざと大きく見えるのだ。(p118,119,120)
竹内敏晴は、自と他の区別を「集中する」ことで一挙に乗り越えてしまう。
しかしながら、言語の障害のための「他者」との関係-自と他の区別ーは長く彼につきまとう。1995年の「老いのイニシエーション」で「他者とは、私とは無縁のもの、ふれようのないもの、のことだ、と私は初めて目を据えるようにして見た。」とはっきりと他者を区別したように見える。しかし、2002年の木田元さんとの対談「待つしかないか」においてなお、そのことが続いていたように思える。
「木田 ・・・『幼児の対人関係』でも、自他の癒合的段階を想定しています。
竹内 あれは本当に面白い。私は子どものこととしてじゃなくて、自分のこととして読みました。聞こえなかったときから聞こえるようになるまでの過程で、こういう体験があったなというふうに、自分に置き換えて読んでしまった。
木田 ・・・言語の問題もあの延長上で考えようとしているはずです。・・・おそらく呼びかけたり語りかけたり、呼びかけに答えたりすることで、いったん分離した自他がもう一度結合しようとする。そういう形で言語の問題をかんがえていたのだろうと。
竹内 今言われてはっきりしました。いったん分離するわけですよね。・・・・・・ 『言語は新しい存在の一形式である』という言い方が出てきます。どこに書いてあったのか忘れてしまったのですが、私のようにしゃべれなかったのにしゃべれるようになった人間にとって非常にはっきりしていますが、自然に何かが開かれてことばが言えるようになるわけではない。しゃべるということはある時期に獲得した形式であって、ことばをしゃべれたとき、他者に対する自分の存在の仕方がすっかり変わる。新しい存在の形式が生まれる。メルロ・ポンティがそういうイメージで書いたとは思いませんが、彼は言語が自然発生的に、それまであったものが言語の転化したというかたちで生まれたのではなくて、言語を獲得した瞬間に一つの存在の仕方がうまれると考えていたのだろう、ずっと思ってきました。」(p203、204,205)
ここにおいても竹内敏晴は、「いったん分離するわけですよね」と自と他が分離することを確認している。そうして、自と他が一端分離したのちに、自他が結合するものとして言語を考えている。
この少し前に、「呼びかけ」のレッスンについてふれている。
「なんであの人に声をかけるのか。それはあの人のからだがこちらのからだに呼びかけるからです。そこにはある種の響き合いがある。このときこちらが出ていく行為が呼びかけになる。呼びかけたときにはじめてはっきりと具体的に相手が、『あなた』がうまれて、同時に『呼びかけている私』もそこに生まれてくる。そういう感じがする。呼びかけとは他者と自分との構造である。」(p202)
これは「呼びかけ」のレッスンのきわめて本質的な規定である。
私が竹内敏晴と会った頃には、自と他の区別があいまいな時期だったのだろう。しかし、その中でも彼は少しずつ変わったのだろう。1979年の「田中正造―矢中村」の稽古中での竹内敏晴の写真を見ると、何かを見据えるように見つめる姿がある。自と他が融合した状態であるとはとても見えない。何か見えないものを見据えているような姿である。
私の竹内敏晴とのレッスンは1976年から1983年までの8年間である。私は自分の満足するところまでレッスンをやった。しかし、私はこのとき達成した以上のところへ進むことができなかったようだ。自分なりのレッスンはやってきた。しかし、それを日本で十分に展開してやろうというふうにはならなかった。常に竹内敏晴との最初の5年間のレッスンとは何なのだろう、それをはっきりさせないという思いがくり返し立ち現れた。竹内敏晴に直接そのことを問うことはできないということは、知っていたように思う。それにやはり私たちとのレッスンは自と他の区別以前に状態で行われていたのだろう。そのために私には離れている長い時間が必要だった。
晩年の写真で見る竹内敏晴は明るく落ち着いている。80歳代になって彼は変わった。何か突き抜けたのだろう。
「『出会う』ということを読むことによって、再び彼とのレッスン―対話―が始まった。私は竹内演劇研究所時代には竹内敏晴に「竹内さんは師匠になり切らないな。」と話していた。竹内敏晴もそれに同意していた。しかし、生涯を通してみると、竹内敏晴は師匠であったと今は言うことができる。レッスンに参加人たちが次の世代に何を伝えられるかということも同時に現れてきている。
そして、「何カ月かたって、レッスンしているとき、ふと私は気がついた。ー自分のからだの動きが向かい合っている相手に移って、新しい動きができるようのなる、あるいは相手の動きが自分の方に移ってきて、相手のからだの歪みなりとどこおりなりが感じとれてくる、そして、自他の激しい気合の交錯の中で微妙に反応しあうとき、変貌が起こる。このときはもう、自とか他はもうなくなっている。他の動きは自と一つに溶けあい、自の呼吸が他を生気づけている。―これはあのメルロ・ポンティの言ったことの証ではないか?」(p113)と述べている。
メルロ・ポンティの「幼児の対人関係」からいくつかの箇所を引用してみよう。
「したがって、ここでわれわれに与えられているのは、今日の心理学の用語でいうなら、<私の行動>と<他人の行動>という二つの項をもちながら、しかも、一つの全体として働くような<一つの系>なのです。」(p44)
「-自己や他人というものが絶対的に自己意識的なものであって、両者は相互に絶対的独自性を主張し合うものだとはじめから仮定してしまっては、もう他人知覚を説明することはできなくなってしまうだろう、と。反対に、幼児がまだ自己自身と他人の区別を知らない状態のときでさえ、精神の発生が始まっているのだと仮定すれば、他人知覚も理解できることになるのです。もちろん、自己と他人の区別がないとすれば、幼児が本当の意味で他人と交通しているというわけにはいきません。本当の<交通>が存在するためには、まじわっていく人とその相手の人とが、きちんと区別されていなけばならないはずです。が、それにしても、最初は、他人の志向がいわば私の身体を通して働き、また私の志向が他人の身体を通して活動するといった『前交通』の状態があるに違いないのです。(p45)
「したがって、幼児の発達は、ほぼつぎのような様相を呈することになりましょう。まずわれわれが『前交通』と呼ぶ第一の段階があるわけですが、そこにあるのは、個人と個人の対立ではなく、匿名の集合であり、未分化は集団生活です。次に、こうした最初の共同性を基盤にして、一方では自分自身の身体を客観化し、他方では他人を自分とは違うものとして構成するというふうにして、個人個人が分離され、区別される段階が来ます。」(p46)
「最初の自我は、このように自分というものを何も知らないし、それだけ自分の限界もわかっていないわけですが、それに反して、成人の自我は、自分自身の限界を知っておりながら、同時に本当の意味での共感によってそこを越え出る能力をも合わせて持った自我になっていきます。この共感は少なくとも比較的な意味では当初の共感とは異なっているはずです。当初の共感は、<他人知覚>よりはむしろ<自己に対する無知>にもつづいていたわけですが、成人の共感の方は、「他者」と「他者」とのあいだに起こるものであって、自己と他人の相違が消滅することを前提とし成り立つようなものではないからです。」(p47、p48)
メルロ・ポンティは、「<私の行動>と、<他人の行動>という二つの項を持ちながら、しかも一つの全体とし働ような<一つの系>なのです。」ということは述べている。
しかし、彼は自己や他人が絶対的に自己意識的なものではないことを述べていますが、「自己と他人の区別がないとすれば、幼児が本当の意味で他人と交通しているとは言うわけにはいきません。本当の<交通>が存在するためには、交わっていく人とその相手の人が、きちんと区別されていなければならないはずです。他人の身体をそれにしても、最初は、他人の志向がいわば私の身体を通して働き、また私の志向が他人の身体を通して活動するといった『前交通』(マックス・シェーラー)の状態があるに違いないのです。」とも述べている。
さらに、「最初の自我は、このように自分というものについて何も知らないし、それだけ自分の限界も判っていないわけですが、それに反して成人の自我は、自分自身の限界を知っておりながら、同時に本当に意味の共感によってそこを越え出る能力を合わせもった自我になっていきます。この共感は、少なくとも比較的な意味では当初の共感とは異なっているはずです。当初の共感は、<他人知覚>よりはむしろ<自分に対する無知>にもとづいていたわけですが、成人の共感の方は『他者』と『他者』とのあいだに起こることであって、自己と他人の相違が消滅すること前提として成り立つようなものではないです。」と述べている。
竹内敏晴は、「・・・このときもう、自とか他はなくなっている。他の動きは自と一つに溶けあい、自の呼吸が他を生気づけている。ーこれはあのメルロ・ポンティの言ったことの証ではないか?」と述べているが、メルロ・ポンティによると、「自己と他人の区別がないとすれば、幼児が本当の意味で他人と交通しているというわけにはいきません。本当の<交通>が存在するためには、交わっていく人と、その相手の人とが、きちんと区別されていなくてはならないはずです。が、それにしても、最初は、他人の志向が私の身体を通して働き、また私の志向が他人の身体を通して働くといった『前交通』の状態があるに違いないのです。」ということである。
これは竹内敏晴の誤読なのであろうか?
竹内敏晴は続けて、「今まで他者は、つねに私の憧れであった。少しずつこえとことばが劈かれるにつれて、他者は私に向かって姿を現わし、かつ近づいてきていたけれども、なお、遠くより来るもの、異形のものであった。それに真にふれなければ、自分が新しく劈かれることはないのあろうと予感しながら、ついおびえて尻込みする。私が憧れていたことは、—ある意味では、いまだに変わらずそれが続いているのだがー自他が合一しきっているという確信に支えられて、勝手自在にふるまい、ふれあい、そして、自己を超出すること、とでも言ったらよいのだろうか。その充実しためくるめくような幸福感ーそれこそ創造の名に値するー。」(p113,114)と祝祭のレッスンと彼が呼ぶレッスンを語っている。
竹内敏晴は幼児ではない。しかし、重篤な聴覚言語障害があったために、「他者」が現れて来る過程を、自覚的に認識しながら進んできている。
それにしても彼のいう「自他の合一」は、自と他の区別の以前のものではないか?「その充実しためくるめくような幸福感」を示している写真がある。安海健一さんが撮った、竹内演劇研究所のクラスでの稽古場面の、竹内敏晴の表情である。能天気なほどの開けっ放しの表情で、幸福感を示している。
しかしながら、次のことに注意しておかなければならない。この稿の最初の竹内敏晴のものの引用で、「-自分のからだの動きが向かい合っている相手に移って、新しい動きができるようになる、あるいは相手の動きが自分の方へ移ってきて、相手の歪みなりとどこおりなりが感じ取れてくる、そして、自他の激しい気合の交錯の中で微妙に反応しあうとき、変貌が起こる。」とある。
「自他の激しい気合の交錯の中で微妙に反応しあうとき、変貌が起こる。」のである。この「自他の激しい気合」ということばは、竹内敏晴のレッスンの集中した状態を意味してる。そして、あとの方の引用でも「自己を超出すること、とでもいったらよいのだろうか。」と述べている。自と他の区別以前の『前交通』のような状態から、深い集中状態の中で、一気に変貌や超出が生じるのである。
このことが竹内敏晴のレッスンの非常に特異な特徴である。
竹内敏晴の集中力は凄まじい。彼は13才のときから弓術を始めている。耳が悪化して、ほとんど聞こえなくなった時期である。「ことばが劈れるとき」から引用しよう。
「確か十九歳の秋、私は絶好調であった。弓をいっぱいに引きしぼって、的をぴたっと狙う。狙うと的は大きく見える。大きく見えるというのは、三十メートル先の的が三十メートル先で大きくなるのではない。ぐんと近づいてくる。・・・この秋の絶好調のときには、、ぴたっとからだがきまったとき、的に向かって弓を押している左手、つまり弓手が的の中に入っているように見えた。的が弓手のこぶしより手前に見える。これでは、はじめから矢先が的の中に入っているわけだから、これはまあ、外れっこない。事実こういうときには絶対外れない。・・・・・・
メルロ・ポンティのことばをかりれば、『遠ざかりゆく事物との距離とは』『事物がしだいにわれわれのまなざしの手がかりからすべりおちてゆき、両者の結びつきが徐々に厳密さを失ってゆくこと示しているにすぎない。』のであり、われわれが結びつきを回復するとき、事物との距離はなくなるーつまり集中がある頂点に達したときに、的と自分とは一つになるということだろう。そのとき的はまざまざと大きく見えるのだ。(p118,119,120)
竹内敏晴は、自と他の区別を「集中する」ことで一挙に乗り越えてしまう。
しかしながら、言語の障害のための「他者」との関係-自と他の区別ーは長く彼につきまとう。1995年の「老いのイニシエーション」で「他者とは、私とは無縁のもの、ふれようのないもの、のことだ、と私は初めて目を据えるようにして見た。」とはっきりと他者を区別したように見える。しかし、2002年の木田元さんとの対談「待つしかないか」においてなお、そのことが続いていたように思える。
「木田 ・・・『幼児の対人関係』でも、自他の癒合的段階を想定しています。
竹内 あれは本当に面白い。私は子どものこととしてじゃなくて、自分のこととして読みました。聞こえなかったときから聞こえるようになるまでの過程で、こういう体験があったなというふうに、自分に置き換えて読んでしまった。
木田 ・・・言語の問題もあの延長上で考えようとしているはずです。・・・おそらく呼びかけたり語りかけたり、呼びかけに答えたりすることで、いったん分離した自他がもう一度結合しようとする。そういう形で言語の問題をかんがえていたのだろうと。
竹内 今言われてはっきりしました。いったん分離するわけですよね。・・・・・・ 『言語は新しい存在の一形式である』という言い方が出てきます。どこに書いてあったのか忘れてしまったのですが、私のようにしゃべれなかったのにしゃべれるようになった人間にとって非常にはっきりしていますが、自然に何かが開かれてことばが言えるようになるわけではない。しゃべるということはある時期に獲得した形式であって、ことばをしゃべれたとき、他者に対する自分の存在の仕方がすっかり変わる。新しい存在の形式が生まれる。メルロ・ポンティがそういうイメージで書いたとは思いませんが、彼は言語が自然発生的に、それまであったものが言語の転化したというかたちで生まれたのではなくて、言語を獲得した瞬間に一つの存在の仕方がうまれると考えていたのだろう、ずっと思ってきました。」(p203、204,205)
ここにおいても竹内敏晴は、「いったん分離するわけですよね」と自と他が分離することを確認している。そうして、自と他が一端分離したのちに、自他が結合するものとして言語を考えている。
この少し前に、「呼びかけ」のレッスンについてふれている。
「なんであの人に声をかけるのか。それはあの人のからだがこちらのからだに呼びかけるからです。そこにはある種の響き合いがある。このときこちらが出ていく行為が呼びかけになる。呼びかけたときにはじめてはっきりと具体的に相手が、『あなた』がうまれて、同時に『呼びかけている私』もそこに生まれてくる。そういう感じがする。呼びかけとは他者と自分との構造である。」(p202)
これは「呼びかけ」のレッスンのきわめて本質的な規定である。
私が竹内敏晴と会った頃には、自と他の区別があいまいな時期だったのだろう。しかし、その中でも彼は少しずつ変わったのだろう。1979年の「田中正造―矢中村」の稽古中での竹内敏晴の写真を見ると、何かを見据えるように見つめる姿がある。自と他が融合した状態であるとはとても見えない。何か見えないものを見据えているような姿である。
私の竹内敏晴とのレッスンは1976年から1983年までの8年間である。私は自分の満足するところまでレッスンをやった。しかし、私はこのとき達成した以上のところへ進むことができなかったようだ。自分なりのレッスンはやってきた。しかし、それを日本で十分に展開してやろうというふうにはならなかった。常に竹内敏晴との最初の5年間のレッスンとは何なのだろう、それをはっきりさせないという思いがくり返し立ち現れた。竹内敏晴に直接そのことを問うことはできないということは、知っていたように思う。それにやはり私たちとのレッスンは自と他の区別以前に状態で行われていたのだろう。そのために私には離れている長い時間が必要だった。
晩年の写真で見る竹内敏晴は明るく落ち着いている。80歳代になって彼は変わった。何か突き抜けたのだろう。
「『出会う』ということを読むことによって、再び彼とのレッスン―対話―が始まった。私は竹内演劇研究所時代には竹内敏晴に「竹内さんは師匠になり切らないな。」と話していた。竹内敏晴もそれに同意していた。しかし、生涯を通してみると、竹内敏晴は師匠であったと今は言うことができる。レッスンに参加人たちが次の世代に何を伝えられるかということも同時に現れてきている。
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