私は竹内敏晴のレッスンに参加し、まったくその延長上で、レッスンをやるようになった。全く実践的にレッスンに参加し、レッスンをやるようになった。
レッスンがどのようなものであるのか分かっていたわけではない。竹内敏晴の「ことばが劈かれるとき」を読んで、もしかしたらこの人のところへ行けば、いろいろな逡巡をこえて、正面からぶつかれるのではないかという直観だけであった。この直観通り私は竹内敏晴のところで、思う存分生きた。
しかし、レッスンの体験は様々なことを含んでおり、この体験は私を捉え、私のその後の人生を振り回した。
私の人生を振り返ってみると、竹内敏晴とのレッスンの最初の5年ほどに起こったことが何なんだろうという「問い」に、憑りつかれているのだと思うようになって来た。
この問いを竹内敏晴に直接ぶつけることはできなかった。20年近く竹内敏晴と離れていて、やっと私にその準備が出来て、再び連絡を取り始めたのだが、直後に竹内敏晴に癌が見つかり、短い間に亡くなってしまった。極めて不十分な「対話」があっただけで、さまざまなことを語り合ったり、質問したり、議論することができなかった。
私は最初の8年間のレッスンの体験をことばにしたものを、1984年に竹内敏晴に渡している。この原稿はその当時ある出版社の社長に見てもらうと、ライターを入れたらば、出版すると言われた。しかし、私はそれは受け入れなかった。その社長は「二度読んだが、あなたに必要なことが
だけが書かれているね。」と言われた。
それは体験をあり合わせの私のことばだけで書いたものであるが、今読んでも私にとっても新鮮で、竹内敏晴との出会いで、起こったことの記述である。
その後、私は「からだとことばのレッスン入門―地球市民として自分を耕す」、「生きること向かって―からだとことばのレッスン」などを上梓してきた。「からだとことばのレッスン入門」の後、「からだとことばのレッスンアドヴァンスト編」が出版されることになっていたのだが、その頃私がレッスンを何とか学問と繋げたいと思い、アメリカの大学院に行こうとしたことで、出版されなかった。これは入門と対になっているもので、出版されなかったことは今でも残念である。
出版された「生きることに向かって」の書名は、最初の8年間に書かれた記録のタイトルをもちいたものであり、この本は最初の記録、アドヴァンスト編、ジェイムズ・ヒルマンに触発されて書いたものの混合である。
1988年に竹内演劇研究所は解散し、その後竹内敏晴は名古屋に住むことになった。この時以来私は竹内敏晴との連絡を取らなくなった。
最初の記録に対しては竹内敏晴から何の反応もなかった。18年後竹内敏晴と再び連絡を取り、二度ほど彼のワークショップに参加してみた。私自身の「クラウン」の課題を、竹内敏晴のもとで進めたい気持ちもあったが、何か埒が明かない気がして、自分の思っていることを文章にすることにした。それは、「ソウル・メイキングとしてのからだとことばのレッスンー竹内敏晴との『対話』への試み」と題したものだった。その第一稿を彼に送った。(それはその後、手を入れてアマゾンの電子書籍になっている。)
しかし、その後彼に癌が見つかり、おもわぬ早さで竹内敏晴は亡くなった。亡くなる直前に短い手紙をもらった。その中で彼はレッスンを決まった構築物として展開することを諫めることが書かれていた。それと私が書いたものが昔の竹内敏晴のものであるという指摘があった。「私がからだとことばのレッスン入門」や「からだとことばのレッスンアドヴァンスト編」などで、私が彼のもとでいたときの、レッスンの形をそのまま書いたことを、彼はそれが「レッスン」ではないというものであった。それをもとにしてレッスンを広めることを諫めるものだった。
2009年に竹内敏晴は亡くなった。私はその頃腎臓を悪くして、透析を始める前で、身動きができない状態だった。偲ぶ会にも参加できなかった。
2015年の秋に、竹内敏晴の最後の書、「『出会う』ということ」を読んだ。この本は亡くなる直前まで書いたもので、2009年に出版されており、その当時書店で手にとったのだが、最初の部分だけ読んで、「また、同じことが書かれている」と思い、購入しないでいた。そのため、2015年の春私の出版した「生きることに向かって―からだとことばのレッスン」は、この本を読まないで書いたものなってしまった。
2015年の秋に「『出会う』ということ」を読んで、私のからだに変貌が起こった。それはからだの中に「息吹」が吹き込まれたようになり、苦しいほどであった。周りの世界が、刻々と違った姿を見せ、昔の竹内敏晴とのレッスンに打ち込んでいたときの状態であった。
私は、自分のレッスンをやる時にブレーキをかけていた。それはレッスンを深くやると、社会からこぼれてしまうしまうという恐れ―結局は私の思い込みーだった。私たち「からだ78”-81”」は、仕事を辞めて、レッスンに打ち込んだ。学生だった人たちは職につかなかった。ある意味では出家したようなもので、これが「オウム真理教」にならなかったのは、竹内敏晴のありよう、人柄によるものだっただけかも知れない。レッスンに参加していたある中心的な人物が「オウム真理教」の事件が持ち上がった時、「レッスンをやっていた頃、竹内さんに人を殺せと言われれば、そうしていたかも知れない」と発言した。私は、そのような形で竹内敏晴を信じていたわけではない。本当にそのような発言には驚いた。竹内敏晴には人を支配しようとする動きは全くなかった。常に自分自身の生き方を探っていた。
しかし、このからだグループは何年かの集まりの後解散し、グループの人たちの何人かが社会=世間に戻るのにとても苦労したという話を聞いた。私たち何人かはレッスンを仕事とするようになったので、そのような苦労をしなかった。
ということは、竹内演劇研究所での活動は、常識的な社会的な活動とは異なるという意識があったことになる。
ところが不思議なことに、竹内敏晴自身は、後には呑気にあの時代はアナーキな時代だったと述べているが、1979年に宮城教育大学の教授になり、初めての安定的に収入を得るようになり、社会に正面から出て行っている。1979年はからだのグループで「田中正造―矢中村」を湊川高校でやった年であり、からだグループの人たちはレッスンに夢中であった。
このあたりの竹内敏晴の状態を詳しく書くことは今はしない。レッスンに参加した人たちが社会からこぼれたという意識を持っていたにも関わらず、竹内敏晴は社会的な存在に踏み出したということ確認しておきたい。
その後の歴史を見てみると、「からだ”78ー”81」のような集中的にレッスンに参加するような時代はあの時代だけであり、私が自分のレッスンに制限を加えるようにしたことは、誤りだった。週に1回とか週末のワークショップだけで、人が社会からこぼれるようなところまで行くことはない。
その後、「からだ”78-”81」の人たちの中から、自分の問題を通して、社会の中で、それまでになかったような「場」を創り出し、広範囲な形で活動するということが現れてきた。その人たちは、「竹内」でのレッスンで満足するような体験をしたわけではないと思っている。しかし、その人たちの活動を見ていると、「からだ」グループでの活動がベースにあると私には思える。
竹内敏晴は「『出会う』という本の中で、長年の私の書いたものに対して答えてくれている。最初の記録「生きることに向かって」を渡してから実に25年後である。彼は死に臨んで、彼の仕事を整理している。これについては次に述べる。
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レッスンがどのようなものであるのか分かっていたわけではない。竹内敏晴の「ことばが劈かれるとき」を読んで、もしかしたらこの人のところへ行けば、いろいろな逡巡をこえて、正面からぶつかれるのではないかという直観だけであった。この直観通り私は竹内敏晴のところで、思う存分生きた。
しかし、レッスンの体験は様々なことを含んでおり、この体験は私を捉え、私のその後の人生を振り回した。
私の人生を振り返ってみると、竹内敏晴とのレッスンの最初の5年ほどに起こったことが何なんだろうという「問い」に、憑りつかれているのだと思うようになって来た。
この問いを竹内敏晴に直接ぶつけることはできなかった。20年近く竹内敏晴と離れていて、やっと私にその準備が出来て、再び連絡を取り始めたのだが、直後に竹内敏晴に癌が見つかり、短い間に亡くなってしまった。極めて不十分な「対話」があっただけで、さまざまなことを語り合ったり、質問したり、議論することができなかった。
私は最初の8年間のレッスンの体験をことばにしたものを、1984年に竹内敏晴に渡している。この原稿はその当時ある出版社の社長に見てもらうと、ライターを入れたらば、出版すると言われた。しかし、私はそれは受け入れなかった。その社長は「二度読んだが、あなたに必要なことが
だけが書かれているね。」と言われた。
それは体験をあり合わせの私のことばだけで書いたものであるが、今読んでも私にとっても新鮮で、竹内敏晴との出会いで、起こったことの記述である。
その後、私は「からだとことばのレッスン入門―地球市民として自分を耕す」、「生きること向かって―からだとことばのレッスン」などを上梓してきた。「からだとことばのレッスン入門」の後、「からだとことばのレッスンアドヴァンスト編」が出版されることになっていたのだが、その頃私がレッスンを何とか学問と繋げたいと思い、アメリカの大学院に行こうとしたことで、出版されなかった。これは入門と対になっているもので、出版されなかったことは今でも残念である。
出版された「生きることに向かって」の書名は、最初の8年間に書かれた記録のタイトルをもちいたものであり、この本は最初の記録、アドヴァンスト編、ジェイムズ・ヒルマンに触発されて書いたものの混合である。
1988年に竹内演劇研究所は解散し、その後竹内敏晴は名古屋に住むことになった。この時以来私は竹内敏晴との連絡を取らなくなった。
最初の記録に対しては竹内敏晴から何の反応もなかった。18年後竹内敏晴と再び連絡を取り、二度ほど彼のワークショップに参加してみた。私自身の「クラウン」の課題を、竹内敏晴のもとで進めたい気持ちもあったが、何か埒が明かない気がして、自分の思っていることを文章にすることにした。それは、「ソウル・メイキングとしてのからだとことばのレッスンー竹内敏晴との『対話』への試み」と題したものだった。その第一稿を彼に送った。(それはその後、手を入れてアマゾンの電子書籍になっている。)
しかし、その後彼に癌が見つかり、おもわぬ早さで竹内敏晴は亡くなった。亡くなる直前に短い手紙をもらった。その中で彼はレッスンを決まった構築物として展開することを諫めることが書かれていた。それと私が書いたものが昔の竹内敏晴のものであるという指摘があった。「私がからだとことばのレッスン入門」や「からだとことばのレッスンアドヴァンスト編」などで、私が彼のもとでいたときの、レッスンの形をそのまま書いたことを、彼はそれが「レッスン」ではないというものであった。それをもとにしてレッスンを広めることを諫めるものだった。
2009年に竹内敏晴は亡くなった。私はその頃腎臓を悪くして、透析を始める前で、身動きができない状態だった。偲ぶ会にも参加できなかった。
2015年の秋に、竹内敏晴の最後の書、「『出会う』ということ」を読んだ。この本は亡くなる直前まで書いたもので、2009年に出版されており、その当時書店で手にとったのだが、最初の部分だけ読んで、「また、同じことが書かれている」と思い、購入しないでいた。そのため、2015年の春私の出版した「生きることに向かって―からだとことばのレッスン」は、この本を読まないで書いたものなってしまった。
2015年の秋に「『出会う』ということ」を読んで、私のからだに変貌が起こった。それはからだの中に「息吹」が吹き込まれたようになり、苦しいほどであった。周りの世界が、刻々と違った姿を見せ、昔の竹内敏晴とのレッスンに打ち込んでいたときの状態であった。
私は、自分のレッスンをやる時にブレーキをかけていた。それはレッスンを深くやると、社会からこぼれてしまうしまうという恐れ―結局は私の思い込みーだった。私たち「からだ78”-81”」は、仕事を辞めて、レッスンに打ち込んだ。学生だった人たちは職につかなかった。ある意味では出家したようなもので、これが「オウム真理教」にならなかったのは、竹内敏晴のありよう、人柄によるものだっただけかも知れない。レッスンに参加していたある中心的な人物が「オウム真理教」の事件が持ち上がった時、「レッスンをやっていた頃、竹内さんに人を殺せと言われれば、そうしていたかも知れない」と発言した。私は、そのような形で竹内敏晴を信じていたわけではない。本当にそのような発言には驚いた。竹内敏晴には人を支配しようとする動きは全くなかった。常に自分自身の生き方を探っていた。
しかし、このからだグループは何年かの集まりの後解散し、グループの人たちの何人かが社会=世間に戻るのにとても苦労したという話を聞いた。私たち何人かはレッスンを仕事とするようになったので、そのような苦労をしなかった。
ということは、竹内演劇研究所での活動は、常識的な社会的な活動とは異なるという意識があったことになる。
ところが不思議なことに、竹内敏晴自身は、後には呑気にあの時代はアナーキな時代だったと述べているが、1979年に宮城教育大学の教授になり、初めての安定的に収入を得るようになり、社会に正面から出て行っている。1979年はからだのグループで「田中正造―矢中村」を湊川高校でやった年であり、からだグループの人たちはレッスンに夢中であった。
このあたりの竹内敏晴の状態を詳しく書くことは今はしない。レッスンに参加した人たちが社会からこぼれたという意識を持っていたにも関わらず、竹内敏晴は社会的な存在に踏み出したということ確認しておきたい。
その後の歴史を見てみると、「からだ”78ー”81」のような集中的にレッスンに参加するような時代はあの時代だけであり、私が自分のレッスンに制限を加えるようにしたことは、誤りだった。週に1回とか週末のワークショップだけで、人が社会からこぼれるようなところまで行くことはない。
その後、「からだ”78-”81」の人たちの中から、自分の問題を通して、社会の中で、それまでになかったような「場」を創り出し、広範囲な形で活動するということが現れてきた。その人たちは、「竹内」でのレッスンで満足するような体験をしたわけではないと思っている。しかし、その人たちの活動を見ていると、「からだ」グループでの活動がベースにあると私には思える。
竹内敏晴は「『出会う』という本の中で、長年の私の書いたものに対して答えてくれている。最初の記録「生きることに向かって」を渡してから実に25年後である。彼は死に臨んで、彼の仕事を整理している。これについては次に述べる。
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