ここまで書いてきて、何が私を動かしているのか、私にもはっきりわからなかったことを、少し言葉にできるのではないかと思い始めた。それを書いてみよう。
竹内敏晴の「『出会う』ということ」に次にような文がある。
「人がいままでの自分の枠から外へ踏み出す。そのはだかである。・・・・・・ そして、世界が違って見える。そこから踏み出していったときに、何か新しい自我が生まれてくるだろう。そういう例のいくつかには目を見張るようなことがある。
メルロ・ホンティが『眼と精神』の中でひいている画家アンドレ・マルシャンに『木を見ていると木が自分に語りかけてくる」という言葉があって、初めて読んだ頃はどういうことかなと思ったが、実際そうなのだ。いっぽんの黒松が語りかけている、そういう言い方しかできないような形でこちらに入ってくる、迫ってくる。すでに黒松は『黒松』ではない、『あなた』である。そういうことが起こった人がほかの人と向かい合うとき、からだからなにを語りかけられるか・・・・・・」(P115,116)
私もこの中で紹介されている例の一人であると勝手に思っているが、私のからだが何を語るのか。
まず、この竹内敏晴の文章が書かれたのが、2009年であることに留意してほしい。私が竹内敏晴とのレッスンに参加したのは1983年までである。1976年から1983年までのレッスンの体験をことばにしたものを、1984年には竹内敏晴に渡している。それに対しては何の応答はなかった。私の「変容」が起こったのは、1979年から1981年にかけてである。2009年の「『出会う』ということ」でやっと応えてくれている。あまりにも大きな時間差である。
私は1993年に初めての本「からだとことばのレッスン入門」を出した。そして、その本の副題を「地球市民として自分を耕す」とした。これは、竹内演劇研究所ではじめて自分が責任を持つⅠ年間のクラスをやったときの「地球に住む一人の人間として、自分で感じたことで行動することができる『核』をみつける」ということからつながっている。
いつのころからだろう。ワールドウォッチ研究所が毎年出す「地球白書」を読むようになったのは。
私はからだとことば研究所でクラスやワークショップをやって、少数の人とのレッスンをやっている。そこでは人は変わっていくように思えた。しかし、「地球環境」は急速に悪化していくように思われた。
中野民夫や仙田典子や木村理真たちと、「ディープ・エコロジー」のワークショップを企画した。ジョアンナ・メイシ―とティク・ナット・ハンのワークショップや講演会を行った。
「全生命の集い」と名付けられたワークショップはとても興味深いものだった。
しかし、私はこの活動をそのまま続けることはできなかった。それにこの集まりもこれきっりだった。
それまで自分の問題で苦しんできた時間が長かった私は、個人の問題と地球全体の問題をつながった形で考えたかった。それがこの時はうまくできなかった。
話は少し前後するが、竹内敏晴とのレッスンに「からだとことばの会」、「こんとんの会」以来一緒に参加してきた鳥山敏子が55歳で教師を辞めた。そして、翌日に鳥山の家で高田豪と私の3人で集まった。それが「賢治の学校」の始まりになった。
私はアメリカのエサレンなどに参加したときの経験から、いろいろな人がワークショップをやっている場を構想した。参加する人がさまざまな人のワークやレッスンを選択できるようにしたかった。それで、気功の津村喬やアーノルド・ミンデルに学んだ藤見幸雄たちに参加してもらった。鳥山敏子と津村喬を編集代表とする「賢治の学校」という雑誌もできた。その表紙をアメリカで女神を描いている小田まゆみが載せてくれることになった。
私はからだとことば研究所のクラスで、毎年クラウンの発表会をやり、ある程度の見通しが出てきた。すると、またアメリカに行って、レッスンでやっていることを学問的にもはっきりさせたいという気持ちが強くなってきた。
私は前にもアメリカ行を計画していた。竹内演劇研究所が解散したときに、私とパートナーはパリへ行った。パリで死んだ森有正の足跡を追うために、パリに住んで見たかったのだ。
長期滞在のヴィザを取るために、ルコックの演劇学校に入った。レッスンは面白かったが、私は3カ月でやめた。アメリカに行って、英語でレッスンをできるようにしようと思い始めた。それに学問的にもレッスンを位置づけたかった。パートナーがⅠ年間ルコックの学校へ行ったので、私はパリのアメリカン大学の図書館で英語の勉強をしていた。
厄介なことに、英語をしゃべろうとすると吃音が復活してくる。語彙も少ないし、文法もよく分かっていないところがある。そうすると、しゃべる前に、頭の中で、しゃべろうとすることを考える。そうするとすぐに吃音は復活してくる。ともかく英語圏に行って、その中で自然に英語が出てくるような環境に身を置こうと考えた。
パリからアメリカに移り、パートナーはアメリカに残った。私は日本に戻って半年はレッスンをやり、半年はアメリカに戻ることを考えた。友人と二人で日本でレッスンを半年やったが、結局私は日本に戻ることにした。パートナーにも戻ってもらった。
この時やりたいとおもったことが、私の中に残っており、再びアメリカに行きたいという気持ちが強くなってきた。
「賢治の学校」で、ワークや気功やレッスンなどさまざま行われるようになった。しかし、私は肝心の「からだとことばのレッスン」を実践的・経験的にやってきただけで、それを学問的な俎上に載せたかった。
今度はパートナーと娘の3人でアメリカ行を決行した。バークレーの近くの町でアパートを借りた。3か月はそこにいて、いろいろなところを見て廻った。そして、CIIS(California Institute of Integral Studies)に入って、「からだとことばのレッスン」で論文を書こうと思った。
一度日本に帰り、もう一度3人でアメリカに行こうとしたが、ヴィザがうまく取れなかった。それで計画を断念せざるを得なくなった。
それでも、3か月アメリカでいたことで「カリフォルニア賢治の学校」をやろうという話が進んだ。村川治彦の計画したアーノルド・ミンデルの「アジアンワールドワーク」、小田まゆみの砂浜でのワーク、日本からは津村喬が参加し気功をやった。サンフランシスコの子どもたちの和太鼓のパフォーマンスなどもあった。私は触媒のようなもので、それぞれの人たちがやりたいことを持っていて、「宮沢賢治」の世界に共鳴した人たちの集まりであっという間にフェスティバルが行われた。
(その後、「賢治の学校」は試行錯誤の末、鳥山敏子が60歳の時シュタイナー教育を取り入れ、「賢治のシュタイナー学校」として再出発した。)
この二度目のアメリカ行がうまく行かなかったことで、パートナーと私の関係がうまく行かなくなった。レッスンをやることは、経済的にはとても不安的な生活を送ることになる。最初の本も出版されて、普通なら日本に根を張ってレッスンを社会の中で確実にやるべきだった。
しかも、二度目の渡米では2才の娘を連れてのことだった。彼女には不安があったのだろう。
私は自分の関心事に夢中で、彼女がいろいろな不満を持っていることに全く気がついていなかった。
突然別れを切り出され、私は驚き狼狽した。話し合いをしたが、どうにもならずとうとう別れることになってしまった。私の世界は突然崩壊した。
私は娘の近くにアパートを借り、レッスンを再開することにした。
この頃には、竹内演劇研究所以来の人たちが少なくなり、全く新しい人たちが多くなった。欧米からさまざまなワーク・セラピーが日本に紹介され入ってくるようになっていた。それらは特定の技法、目的などを持っていて、ある意味では短期間で「効果的な結果」を得ることができる。
「からだとことばのレッスン」は、自分の内面にいろいろな角度からふれる力を見つけていく。私のやっていたクラウン(道化)のレッスンでは、その基礎過程があって、自分の内面にふれて自分でクラウンのテーマを見出すことが必要である。
短期間で効果を求める傾向が強くなり、これまでのようにゆっくり自分にふれているプロセスをやる時間が短くなってしまった。
その結果、クラウンとしてやるテーマが、直接その人のトラウマに結びつくような傾向も出てきた。
レッスンをやっている時のある何でもない仕草から、ある女性が子どもの頃に性的虐待を受けたということが、顕わになってなってきた。
クラウンの発表会で、見ていた人が突然舞台に出てきて、私も性的虐待を受けたと言い出すということもあった。
クラスに重い心的外傷を抱えた人たちが多くなってきた。
この頃、ジュディス・ハーマンの「心的外傷と回復」という本を読んで、重い心的外傷を抱えた人のケアーは一人が限度で、さらにケアーする人のサポートシステムが必要であると述べていることは知っていた。周りで相談できそうな人を探したが見つけることはできなかった。
1998年12月末クラウンの発表会の稽古を毎日続けていた。発表会の当日の2,3日前に私は倒れた。深夜稽古を終えて新宿駅についた途端、胸に痛みが生じ膝まづいた。その時は何とか家に帰った。次の日病院に行くと、絶対安静と言われそのまま入院した。解離性大動脈瘤であった。
血管の内幕が切れたのだ。外幕まで切れると、即死する可能性が高い。
その後の稽古・発表会はそれまで手伝ってくれていた森川健治がやってくれた。
結局私は7カ月も入院した。切れた内幕の部分を繕うのに、胸骨を正中線で切り開き手術した。その際、体温を18度ぐらいまで下げ、心臓の働きを止めて、その処置をする。人工心肺をもちいて90分ぐらいはそういうことが可能だということだった。
心臓を止めるので、肺はペッシャンコになった。術後再び心臓が動き出したが、肺は前のようにはすぐにはふくらまなかった。からだは一度死を体験したようなものだ。
手術は成功した。しかし、胸骨を合わせ、傷口を縫い合わせてしばらくした頃、患部が抗生物質が効かないMRSAに感染していることが分かった。幸い胸骨の前の組織だけだったので、その部分を繰り返し消毒することで何とかよくなった。
この後退院したが、さすがに今度はすぐにレッスンを再開する気にはなれなかった。
やりたいことが何も出てこなくなった。
この頃、母から電話があった。長年精神科の病院に入院していた一番下の弟が退院しているという。自分の手に負えないので、私に入院させてほしいという。私は末弟が退院していることを知らなかった。
とりあえず香川の家に帰った。母は認知症になっていた。この頃精神科の長期入院患者を外へ出すように国の政策が変わっていた。しかし、退院後のケアーを何もしなくて、一人住まいの母のところに病者を返している。母が認知症になったのは、そのストレスが原因の一つになっていると思う。
もといた国立の病院は、再度の入院を受け入れず、私は地域の病院を調べて、社会復帰に一番熱心なところを見つけ、そこへ弟を入院させた。
一度東京に戻り、しばらくして香川に戻ることにした。母のことだけだと帰らなかったかもしれない。しかし、末弟が何か一緒にいる人を必要としていると感じた。
結局この帰郷は10年に及んだ。私の50歳代丸々である。母が亡くなり、しばらくして追うように末弟が亡くなった。私は二人の死をみとった。
竹内敏晴の「『出会う』ということ」に次にような文がある。
「人がいままでの自分の枠から外へ踏み出す。そのはだかである。・・・・・・ そして、世界が違って見える。そこから踏み出していったときに、何か新しい自我が生まれてくるだろう。そういう例のいくつかには目を見張るようなことがある。
メルロ・ホンティが『眼と精神』の中でひいている画家アンドレ・マルシャンに『木を見ていると木が自分に語りかけてくる」という言葉があって、初めて読んだ頃はどういうことかなと思ったが、実際そうなのだ。いっぽんの黒松が語りかけている、そういう言い方しかできないような形でこちらに入ってくる、迫ってくる。すでに黒松は『黒松』ではない、『あなた』である。そういうことが起こった人がほかの人と向かい合うとき、からだからなにを語りかけられるか・・・・・・」(P115,116)
私もこの中で紹介されている例の一人であると勝手に思っているが、私のからだが何を語るのか。
まず、この竹内敏晴の文章が書かれたのが、2009年であることに留意してほしい。私が竹内敏晴とのレッスンに参加したのは1983年までである。1976年から1983年までのレッスンの体験をことばにしたものを、1984年には竹内敏晴に渡している。それに対しては何の応答はなかった。私の「変容」が起こったのは、1979年から1981年にかけてである。2009年の「『出会う』ということ」でやっと応えてくれている。あまりにも大きな時間差である。
私は1993年に初めての本「からだとことばのレッスン入門」を出した。そして、その本の副題を「地球市民として自分を耕す」とした。これは、竹内演劇研究所ではじめて自分が責任を持つⅠ年間のクラスをやったときの「地球に住む一人の人間として、自分で感じたことで行動することができる『核』をみつける」ということからつながっている。
いつのころからだろう。ワールドウォッチ研究所が毎年出す「地球白書」を読むようになったのは。
私はからだとことば研究所でクラスやワークショップをやって、少数の人とのレッスンをやっている。そこでは人は変わっていくように思えた。しかし、「地球環境」は急速に悪化していくように思われた。
中野民夫や仙田典子や木村理真たちと、「ディープ・エコロジー」のワークショップを企画した。ジョアンナ・メイシ―とティク・ナット・ハンのワークショップや講演会を行った。
「全生命の集い」と名付けられたワークショップはとても興味深いものだった。
しかし、私はこの活動をそのまま続けることはできなかった。それにこの集まりもこれきっりだった。
それまで自分の問題で苦しんできた時間が長かった私は、個人の問題と地球全体の問題をつながった形で考えたかった。それがこの時はうまくできなかった。
話は少し前後するが、竹内敏晴とのレッスンに「からだとことばの会」、「こんとんの会」以来一緒に参加してきた鳥山敏子が55歳で教師を辞めた。そして、翌日に鳥山の家で高田豪と私の3人で集まった。それが「賢治の学校」の始まりになった。
私はアメリカのエサレンなどに参加したときの経験から、いろいろな人がワークショップをやっている場を構想した。参加する人がさまざまな人のワークやレッスンを選択できるようにしたかった。それで、気功の津村喬やアーノルド・ミンデルに学んだ藤見幸雄たちに参加してもらった。鳥山敏子と津村喬を編集代表とする「賢治の学校」という雑誌もできた。その表紙をアメリカで女神を描いている小田まゆみが載せてくれることになった。
私はからだとことば研究所のクラスで、毎年クラウンの発表会をやり、ある程度の見通しが出てきた。すると、またアメリカに行って、レッスンでやっていることを学問的にもはっきりさせたいという気持ちが強くなってきた。
私は前にもアメリカ行を計画していた。竹内演劇研究所が解散したときに、私とパートナーはパリへ行った。パリで死んだ森有正の足跡を追うために、パリに住んで見たかったのだ。
長期滞在のヴィザを取るために、ルコックの演劇学校に入った。レッスンは面白かったが、私は3カ月でやめた。アメリカに行って、英語でレッスンをできるようにしようと思い始めた。それに学問的にもレッスンを位置づけたかった。パートナーがⅠ年間ルコックの学校へ行ったので、私はパリのアメリカン大学の図書館で英語の勉強をしていた。
厄介なことに、英語をしゃべろうとすると吃音が復活してくる。語彙も少ないし、文法もよく分かっていないところがある。そうすると、しゃべる前に、頭の中で、しゃべろうとすることを考える。そうするとすぐに吃音は復活してくる。ともかく英語圏に行って、その中で自然に英語が出てくるような環境に身を置こうと考えた。
パリからアメリカに移り、パートナーはアメリカに残った。私は日本に戻って半年はレッスンをやり、半年はアメリカに戻ることを考えた。友人と二人で日本でレッスンを半年やったが、結局私は日本に戻ることにした。パートナーにも戻ってもらった。
この時やりたいとおもったことが、私の中に残っており、再びアメリカに行きたいという気持ちが強くなってきた。
「賢治の学校」で、ワークや気功やレッスンなどさまざま行われるようになった。しかし、私は肝心の「からだとことばのレッスン」を実践的・経験的にやってきただけで、それを学問的な俎上に載せたかった。
今度はパートナーと娘の3人でアメリカ行を決行した。バークレーの近くの町でアパートを借りた。3か月はそこにいて、いろいろなところを見て廻った。そして、CIIS(California Institute of Integral Studies)に入って、「からだとことばのレッスン」で論文を書こうと思った。
一度日本に帰り、もう一度3人でアメリカに行こうとしたが、ヴィザがうまく取れなかった。それで計画を断念せざるを得なくなった。
それでも、3か月アメリカでいたことで「カリフォルニア賢治の学校」をやろうという話が進んだ。村川治彦の計画したアーノルド・ミンデルの「アジアンワールドワーク」、小田まゆみの砂浜でのワーク、日本からは津村喬が参加し気功をやった。サンフランシスコの子どもたちの和太鼓のパフォーマンスなどもあった。私は触媒のようなもので、それぞれの人たちがやりたいことを持っていて、「宮沢賢治」の世界に共鳴した人たちの集まりであっという間にフェスティバルが行われた。
(その後、「賢治の学校」は試行錯誤の末、鳥山敏子が60歳の時シュタイナー教育を取り入れ、「賢治のシュタイナー学校」として再出発した。)
この二度目のアメリカ行がうまく行かなかったことで、パートナーと私の関係がうまく行かなくなった。レッスンをやることは、経済的にはとても不安的な生活を送ることになる。最初の本も出版されて、普通なら日本に根を張ってレッスンを社会の中で確実にやるべきだった。
しかも、二度目の渡米では2才の娘を連れてのことだった。彼女には不安があったのだろう。
私は自分の関心事に夢中で、彼女がいろいろな不満を持っていることに全く気がついていなかった。
突然別れを切り出され、私は驚き狼狽した。話し合いをしたが、どうにもならずとうとう別れることになってしまった。私の世界は突然崩壊した。
私は娘の近くにアパートを借り、レッスンを再開することにした。
この頃には、竹内演劇研究所以来の人たちが少なくなり、全く新しい人たちが多くなった。欧米からさまざまなワーク・セラピーが日本に紹介され入ってくるようになっていた。それらは特定の技法、目的などを持っていて、ある意味では短期間で「効果的な結果」を得ることができる。
「からだとことばのレッスン」は、自分の内面にいろいろな角度からふれる力を見つけていく。私のやっていたクラウン(道化)のレッスンでは、その基礎過程があって、自分の内面にふれて自分でクラウンのテーマを見出すことが必要である。
短期間で効果を求める傾向が強くなり、これまでのようにゆっくり自分にふれているプロセスをやる時間が短くなってしまった。
その結果、クラウンとしてやるテーマが、直接その人のトラウマに結びつくような傾向も出てきた。
レッスンをやっている時のある何でもない仕草から、ある女性が子どもの頃に性的虐待を受けたということが、顕わになってなってきた。
クラウンの発表会で、見ていた人が突然舞台に出てきて、私も性的虐待を受けたと言い出すということもあった。
クラスに重い心的外傷を抱えた人たちが多くなってきた。
この頃、ジュディス・ハーマンの「心的外傷と回復」という本を読んで、重い心的外傷を抱えた人のケアーは一人が限度で、さらにケアーする人のサポートシステムが必要であると述べていることは知っていた。周りで相談できそうな人を探したが見つけることはできなかった。
1998年12月末クラウンの発表会の稽古を毎日続けていた。発表会の当日の2,3日前に私は倒れた。深夜稽古を終えて新宿駅についた途端、胸に痛みが生じ膝まづいた。その時は何とか家に帰った。次の日病院に行くと、絶対安静と言われそのまま入院した。解離性大動脈瘤であった。
血管の内幕が切れたのだ。外幕まで切れると、即死する可能性が高い。
その後の稽古・発表会はそれまで手伝ってくれていた森川健治がやってくれた。
結局私は7カ月も入院した。切れた内幕の部分を繕うのに、胸骨を正中線で切り開き手術した。その際、体温を18度ぐらいまで下げ、心臓の働きを止めて、その処置をする。人工心肺をもちいて90分ぐらいはそういうことが可能だということだった。
心臓を止めるので、肺はペッシャンコになった。術後再び心臓が動き出したが、肺は前のようにはすぐにはふくらまなかった。からだは一度死を体験したようなものだ。
手術は成功した。しかし、胸骨を合わせ、傷口を縫い合わせてしばらくした頃、患部が抗生物質が効かないMRSAに感染していることが分かった。幸い胸骨の前の組織だけだったので、その部分を繰り返し消毒することで何とかよくなった。
この後退院したが、さすがに今度はすぐにレッスンを再開する気にはなれなかった。
やりたいことが何も出てこなくなった。
この頃、母から電話があった。長年精神科の病院に入院していた一番下の弟が退院しているという。自分の手に負えないので、私に入院させてほしいという。私は末弟が退院していることを知らなかった。
とりあえず香川の家に帰った。母は認知症になっていた。この頃精神科の長期入院患者を外へ出すように国の政策が変わっていた。しかし、退院後のケアーを何もしなくて、一人住まいの母のところに病者を返している。母が認知症になったのは、そのストレスが原因の一つになっていると思う。
もといた国立の病院は、再度の入院を受け入れず、私は地域の病院を調べて、社会復帰に一番熱心なところを見つけ、そこへ弟を入院させた。
一度東京に戻り、しばらくして香川に戻ることにした。母のことだけだと帰らなかったかもしれない。しかし、末弟が何か一緒にいる人を必要としていると感じた。
結局この帰郷は10年に及んだ。私の50歳代丸々である。母が亡くなり、しばらくして追うように末弟が亡くなった。私は二人の死をみとった。
コメント
コメントを投稿