あらためてレッスンとは何かと問うてみると、それはことばにするのがなかなか難しいことにいつもながら気がつく。竹内敏晴とのレッスン、「からだとことばのレッスン」を人に紹介するのがとても難しいということをいろいろな人からたびたび聞いてきた。私は何と言っていただろう。人と人が相い対したときに生じることを見ていくとか、「呼びかけ」のレッスンの具体的な内容を紹介したりしていた。あまり深く突き詰めることなく「からだとことばのレッスン」をやっていた。「からだ」とは、からだとこころが一体となって動いているさまを「からだ」としてひらがなで述べてきた。「からだとことば」とは並列ではなく、からだでもあり、ことばでもあるというふうに使っている。もちろんからだとことばの関係も含んでいる。
からだとこころという分け方が一般的なのだろうが、あえてからだとこころが一体となって動いているさまを「からだ」として見てきた。
竹内敏晴は徹底的に「からだ」の人だったと思うが、私のレッスンには少しずつ心理学的な要素が加わってきたのかもしれない。このあたりはまだ自分でも判然としないところがある。今のところはこれ以上何も言えない。
「『出会う』ということ」で竹内敏晴はレッスンについて次のように言っている。
「そもそも『レッスン』ということば自体、仮の名にすぎない。・・・なんと名づけたらよいか、はたと迷った。有用な技術の獲得を目指す『訓練』ではなく、ある境地に達することを目指す『修行』でもない。演劇的なパフォーマンスの『稽古』でもない。どうしてもうまい日本語が見つからないので、当時あまり世に流通していなかった用語だったので『レッスン』と呼んでみただけにすぎない。たしかに『ゆらし』とか『呼びかけ』とか『出会い』とかのエクササイズはあるが、それをやることが『レッスン』なのではない。何かがその場でおこり、ふれあい、時に人は変わって行く。が次のレッスンで全く別の人との問い、別の気づきが動き、そして次の時また新しく『その人』が現れる。その何回かの試みを貫いて何かが探られていくということに向かって、その人も私も歩いていく。そのことが『レッスン』なのだ。『レッスン』と呼ばれるような実体はないのだ。(「『出会う』ということ」p183,184)
これらの竹内敏晴のことばは、私にさまざまな思いを起こさせる。竹内演劇研究所があった頃は、少し違うところがあったのでないか?1975年のことばが劈かれるとき」や「劇へ―からだのバイエル」には、レッスンの全体像を示しているような箇所がある。レッスンに参加した側から言うと、1回、1回のレッスンが切れたものではなく、何かが始まり、展開し、終息した。私の場合はこれに8年間要した。竹内演劇研究所があった頃に、レッスンが終息するところまで行った人は他にはいなかったと思う。鳥山敏子の場合は、本質的な部分は終わってきたのだが、最後の部分を彼女が私を使って、レッスンを終息させた。
これらのことばは、研究所が解散した後の、竹内敏晴のレッスンのありようと思わせる。月1回の週末のレッスンと年に何度かの発表会。竹内敏晴はこのようにレッスンをやっていたのかなと思う。
さらに、今回竹内敏晴のレッスンを一から見直し、生涯を通してみると、竹内敏晴のレッスンは先に引用したようなものであるとも思える。
私は1976年に竹内敏晴の「ことばが劈かれるとき」を読み、彼のレッスンに参加するようになった。その時は、私は彼の本を読んで、もしかしたらこの人には、さまざまな逡巡をこえて、正面からぶつかれるのではないかと思った。そう思ったが実際にあって見ないと本当には分からないという気持ちもあった。実際にレッスンに参加して、私はその通り振舞い、それらをすべて受け入れられ、世の中でこんなことがあってもいいのかというぐらいに感じた。
このことはこれまで何度も書いてきた。しかし、今回レッスンを一から見直し、竹内敏晴のレッスンにおける生涯を見ていくとそれとは別の見え方も現れてきた。
私は竹内敏晴がレッスンのことを「分かって」やっていると思い込んでいた。そういう意味で、安心して信頼して彼にすべてをゆだね任せていた。信仰のように信じていたわけではない。安心して、その時その場で生まれるものに任せることができた。そうすると、毎回新しい体験が起こり、私は次々と変わって行った。竹内敏晴は地面のようなものであった。私には私の体験としてしか残っていない。
今回レッスンを一から見直すことを始めて気がついたことは、竹内敏晴はレッスンを分かってやっていたのではないということだ。彼は私たちと一緒にレッスンを新たに見出していた。例えば、「砂浜の出会い」のレッスンは、「こんとんの会」の第1回目の集まりで成立したのではないかということだ。それまでにもさまざまな演劇での活動はあったろう。しかし、それらをいったんん捨てて、その場にいる人たちとのからだへのかかわりにおいて、彼は新しいことを見出していった。基本的に彼は生涯を通じてこのようにレッスンをやってきたのだろう。
私は1980年の神戸の湊川高校での公演-「セチュアンの善人―場末の天使」の最後に、竹内敏晴に「なぜあなたはここに来るのですか?」と問うた。彼の答えは、「分からない、分からないから来ている。」だった。私はその時、「竹内さんは分からないんだ。ここに来ているのは私たちからだ”78~”80のメンバーのために来ているのではないんだ。」と思い、彼からその時から心理的に離れた。
この時にかれが「分からない。」と言っているのだが、それよりも私たちのためでないのだということに関心の重点が置かれていて、レッスンが「分からないもの」としてやられていることに全く気がついていない。
竹内敏晴のレッスンが「分かっているもの」としてやられていたのではないということにいつから気づいたのかということは、今となっては判然としない。
それよりも竹内敏晴のレッスンが「自と他の区別」以前の状態で行われていたのではないかという考えが出てきたことだ。それは彼の「老いのイニシエーション」を詳しく読み直した時だ。彼はこの本のエピローグで次のように述べている。
「ここまで原稿を書き終えて私は筆を置いた。私はヘトヘトでろくに口も利かなかった。・・・・・・気が抜けたようになって数日暮らした。・・・・・・-ただ、自分にこだわっていただけではないか。・・・・・・
何日が経った。私は悪夢から目覚めたような茫然たる静けさと苦しさを感じていた。私は旧約聖書のヨナ記を思い出した。大魚の腹に長い間閉じ込められていたヨナが、魚の口から陸を見たような、と私は感じた。
他者とは、私とは無縁のもの、ふれようのないもの、のことだ、と私は初めて目を据えるようにして見た。他者とふれたい、つながりたいーこれは障害者としての私の長い間の執念だった。それが私を閉じ込めていた。」(P189-190)
竹内敏晴がこれを書いたのが70歳の時、私がまざまざとリアルに読めたのが69歳の時である。時期が来ないと見えないことがある。
竹内敏晴は私や私たちのレッスンを自と他が区別される以前の状態でやっていた可能性がある、とこの時は思った。(自と他の区別については別に考察する。)
「老いのイニシエーション」で、彼は自分の聴覚言語障害について次のように述べている。
「・・・言語に障害のあるものにとって、他人はなかなか『他者』として姿を現さない。自分の圏に他人が入ってくる。それが
自分にとって怖いものあるいは異様なものだった場合には、かれはたちまち圏を狭めて相手にふれないように閉じこもり、様子をうかがって逃げようとする。もし、相手がにこにこあたたかい態度で近寄って来たら、(特に聴覚障害の場合には)まずはほっとして待ってみる。そして、相手にふれて安心でき、溶け合って楽しくなれるとしたら、かれはすっかり相手を信じ自分をありのまま差し出して、しあわせに浸るだろう。・・・・・・
『ことばが劈かれるとき』後、私は私をとりかこむ世界の壁が破れたと感じたし、自分が他者と同じ開かれた地平に立っていると感じた。・・・・・・
閉じたからだたちが立ち現れてきたのだ。私はそれにまっすぐに向かいあって、呼びかけ働きかけ、かかわり合おうとつとめた。声が私にふれて来る瞬間、相手と私の間にかかわりが生まれた瞬間のよろこびが、新しい私を誕生させた。これは『他者』ではなかったのか?
それとも、私は、まだ見とどけ切れないある地平に閉じこめられているのだろうか?」(p116,117、118,119)
私は竹内敏晴を全く信頼していた。最初に研究所の見学に行ったとき、レッスンの後で、肩に両手を置かれ、「これじゃ苦しいだろうな。」と言われた。その瞬間、私は苦しいんだということを納得した。そして、苦しいのではない状態があることを知った。それまでも何と言えない苦しさ、感情の振幅の小ささ、人との関係が少ないなと感じていたが、ほかの人もこんなものなのかと漠然と思っていただけだった。
その後実際のレッスンでは、本当に自分の思う通りに行動してきた。そして、それがすべて受け入れられてきた。それがあまりに底なしなので、不思議に思うこともあった。
この「もし、相手がにこにこあたたかい態度で近寄って来たら、まずはほっとして待ってみる。そして、相手にふれて安心でき、溶け合って楽しくなるとしたら、かれはすっかり相手を信じ自分をありのまま差し出して、しあわせに浸るだろう。」ということばは、私が彼を全く信頼していたから、彼が彼のありのままを差し出しだと読むこともできる。
私は吃音者である―言語障害者であることを彼に会う前に自分で受け入れていた。私が彼を全く疑うことなく信じ切っていたことが、彼が私のやることをすべて受け入れていったということにつながっているのだろうか?
それからもう一つ、「ことばが劈かれるとき」に次のことばがある。
「ー魯迅は自分を新しいものと考えたことはなかった。いつも古いものとしてとらえた。そしてその自分の古さを徹底的に憎むことによって、中国の古いものと闘った。ー・・・・・・
私は道傍で遊んでいる子どもを見た。ふいに涙がながれた。おれはもうダメだ。新しく生きれない。しかし、もう二度とこの子どもたちに、おれと同じ教育をさせない。」(p57)
また、どこかで「自分からは変われない。」と言ったり、「変わることは相手に突破されることだ。」と述べていたように思う。
竹内敏晴は、他者とのかかわりにおいて自分自身がともに変わってきた。私が竹内敏晴とレッスンをやったときには、私にとって、彼は地面のようなものであり、彼の存在は私の中でほとんど意識されない。私の体験が残っているだけだ。竹内敏晴が「あなた」として意識されているわけではない。しかし、竹内敏晴は自分が変わって行くのに他者とのかかわりを必要とした。
私にとって竹内敏晴は親のようでもあり、産婆のようでもあった。竹内敏晴が「あなた」として現れるのには離れている長い時間が必要だった。
竹内敏晴にとっては、レッスンとは「わたし」と「あなた」が自己同一性の系の項として現れるものであった。しかし、レッスンに参加した「あなた」である私にとって竹内敏晴は、「わたし」にとっての「あなた」として現れていたわけではない。竹内敏晴は地面であり、「私が生てくる」基盤であった。竹内敏晴にとっては、「あなた」が生まれることにより、「わたし』が生まれ、新たな自分自身を見出していった。
1995年の「老いのイニシエーション」での、「他者とは、私とは無縁のもの。ふれようにないもの、のことだ、と私は初めて目を据えるようにして見た」以後のレッスンは、変わったのだろうか?
20年近く竹内敏晴と全く連絡をとらずに来たが、レッスンを忘れていたわけではない。やっと、竹内敏晴を「あなた」として、「対話」を始めようとしたところで、彼に癌が見つかり、亡くなってしまった。
「『出会う』ということで、私の不十分な「対話」に応えてくれていた。「対話」はやっとこれから始まるのだろう。
竹内敏晴は生涯を通して、人とのかかわりの中で自分を新しくしていったと言えるだろう。
からだとこころという分け方が一般的なのだろうが、あえてからだとこころが一体となって動いているさまを「からだ」として見てきた。
竹内敏晴は徹底的に「からだ」の人だったと思うが、私のレッスンには少しずつ心理学的な要素が加わってきたのかもしれない。このあたりはまだ自分でも判然としないところがある。今のところはこれ以上何も言えない。
「『出会う』ということ」で竹内敏晴はレッスンについて次のように言っている。
「そもそも『レッスン』ということば自体、仮の名にすぎない。・・・なんと名づけたらよいか、はたと迷った。有用な技術の獲得を目指す『訓練』ではなく、ある境地に達することを目指す『修行』でもない。演劇的なパフォーマンスの『稽古』でもない。どうしてもうまい日本語が見つからないので、当時あまり世に流通していなかった用語だったので『レッスン』と呼んでみただけにすぎない。たしかに『ゆらし』とか『呼びかけ』とか『出会い』とかのエクササイズはあるが、それをやることが『レッスン』なのではない。何かがその場でおこり、ふれあい、時に人は変わって行く。が次のレッスンで全く別の人との問い、別の気づきが動き、そして次の時また新しく『その人』が現れる。その何回かの試みを貫いて何かが探られていくということに向かって、その人も私も歩いていく。そのことが『レッスン』なのだ。『レッスン』と呼ばれるような実体はないのだ。(「『出会う』ということ」p183,184)
これらの竹内敏晴のことばは、私にさまざまな思いを起こさせる。竹内演劇研究所があった頃は、少し違うところがあったのでないか?1975年のことばが劈かれるとき」や「劇へ―からだのバイエル」には、レッスンの全体像を示しているような箇所がある。レッスンに参加した側から言うと、1回、1回のレッスンが切れたものではなく、何かが始まり、展開し、終息した。私の場合はこれに8年間要した。竹内演劇研究所があった頃に、レッスンが終息するところまで行った人は他にはいなかったと思う。鳥山敏子の場合は、本質的な部分は終わってきたのだが、最後の部分を彼女が私を使って、レッスンを終息させた。
これらのことばは、研究所が解散した後の、竹内敏晴のレッスンのありようと思わせる。月1回の週末のレッスンと年に何度かの発表会。竹内敏晴はこのようにレッスンをやっていたのかなと思う。
さらに、今回竹内敏晴のレッスンを一から見直し、生涯を通してみると、竹内敏晴のレッスンは先に引用したようなものであるとも思える。
私は1976年に竹内敏晴の「ことばが劈かれるとき」を読み、彼のレッスンに参加するようになった。その時は、私は彼の本を読んで、もしかしたらこの人には、さまざまな逡巡をこえて、正面からぶつかれるのではないかと思った。そう思ったが実際にあって見ないと本当には分からないという気持ちもあった。実際にレッスンに参加して、私はその通り振舞い、それらをすべて受け入れられ、世の中でこんなことがあってもいいのかというぐらいに感じた。
このことはこれまで何度も書いてきた。しかし、今回レッスンを一から見直し、竹内敏晴のレッスンにおける生涯を見ていくとそれとは別の見え方も現れてきた。
私は竹内敏晴がレッスンのことを「分かって」やっていると思い込んでいた。そういう意味で、安心して信頼して彼にすべてをゆだね任せていた。信仰のように信じていたわけではない。安心して、その時その場で生まれるものに任せることができた。そうすると、毎回新しい体験が起こり、私は次々と変わって行った。竹内敏晴は地面のようなものであった。私には私の体験としてしか残っていない。
今回レッスンを一から見直すことを始めて気がついたことは、竹内敏晴はレッスンを分かってやっていたのではないということだ。彼は私たちと一緒にレッスンを新たに見出していた。例えば、「砂浜の出会い」のレッスンは、「こんとんの会」の第1回目の集まりで成立したのではないかということだ。それまでにもさまざまな演劇での活動はあったろう。しかし、それらをいったんん捨てて、その場にいる人たちとのからだへのかかわりにおいて、彼は新しいことを見出していった。基本的に彼は生涯を通じてこのようにレッスンをやってきたのだろう。
私は1980年の神戸の湊川高校での公演-「セチュアンの善人―場末の天使」の最後に、竹内敏晴に「なぜあなたはここに来るのですか?」と問うた。彼の答えは、「分からない、分からないから来ている。」だった。私はその時、「竹内さんは分からないんだ。ここに来ているのは私たちからだ”78~”80のメンバーのために来ているのではないんだ。」と思い、彼からその時から心理的に離れた。
この時にかれが「分からない。」と言っているのだが、それよりも私たちのためでないのだということに関心の重点が置かれていて、レッスンが「分からないもの」としてやられていることに全く気がついていない。
竹内敏晴のレッスンが「分かっているもの」としてやられていたのではないということにいつから気づいたのかということは、今となっては判然としない。
それよりも竹内敏晴のレッスンが「自と他の区別」以前の状態で行われていたのではないかという考えが出てきたことだ。それは彼の「老いのイニシエーション」を詳しく読み直した時だ。彼はこの本のエピローグで次のように述べている。
「ここまで原稿を書き終えて私は筆を置いた。私はヘトヘトでろくに口も利かなかった。・・・・・・気が抜けたようになって数日暮らした。・・・・・・-ただ、自分にこだわっていただけではないか。・・・・・・
何日が経った。私は悪夢から目覚めたような茫然たる静けさと苦しさを感じていた。私は旧約聖書のヨナ記を思い出した。大魚の腹に長い間閉じ込められていたヨナが、魚の口から陸を見たような、と私は感じた。
他者とは、私とは無縁のもの、ふれようのないもの、のことだ、と私は初めて目を据えるようにして見た。他者とふれたい、つながりたいーこれは障害者としての私の長い間の執念だった。それが私を閉じ込めていた。」(P189-190)
竹内敏晴がこれを書いたのが70歳の時、私がまざまざとリアルに読めたのが69歳の時である。時期が来ないと見えないことがある。
竹内敏晴は私や私たちのレッスンを自と他が区別される以前の状態でやっていた可能性がある、とこの時は思った。(自と他の区別については別に考察する。)
「老いのイニシエーション」で、彼は自分の聴覚言語障害について次のように述べている。
「・・・言語に障害のあるものにとって、他人はなかなか『他者』として姿を現さない。自分の圏に他人が入ってくる。それが
自分にとって怖いものあるいは異様なものだった場合には、かれはたちまち圏を狭めて相手にふれないように閉じこもり、様子をうかがって逃げようとする。もし、相手がにこにこあたたかい態度で近寄って来たら、(特に聴覚障害の場合には)まずはほっとして待ってみる。そして、相手にふれて安心でき、溶け合って楽しくなれるとしたら、かれはすっかり相手を信じ自分をありのまま差し出して、しあわせに浸るだろう。・・・・・・
『ことばが劈かれるとき』後、私は私をとりかこむ世界の壁が破れたと感じたし、自分が他者と同じ開かれた地平に立っていると感じた。・・・・・・
閉じたからだたちが立ち現れてきたのだ。私はそれにまっすぐに向かいあって、呼びかけ働きかけ、かかわり合おうとつとめた。声が私にふれて来る瞬間、相手と私の間にかかわりが生まれた瞬間のよろこびが、新しい私を誕生させた。これは『他者』ではなかったのか?
それとも、私は、まだ見とどけ切れないある地平に閉じこめられているのだろうか?」(p116,117、118,119)
私は竹内敏晴を全く信頼していた。最初に研究所の見学に行ったとき、レッスンの後で、肩に両手を置かれ、「これじゃ苦しいだろうな。」と言われた。その瞬間、私は苦しいんだということを納得した。そして、苦しいのではない状態があることを知った。それまでも何と言えない苦しさ、感情の振幅の小ささ、人との関係が少ないなと感じていたが、ほかの人もこんなものなのかと漠然と思っていただけだった。
その後実際のレッスンでは、本当に自分の思う通りに行動してきた。そして、それがすべて受け入れられてきた。それがあまりに底なしなので、不思議に思うこともあった。
この「もし、相手がにこにこあたたかい態度で近寄って来たら、まずはほっとして待ってみる。そして、相手にふれて安心でき、溶け合って楽しくなるとしたら、かれはすっかり相手を信じ自分をありのまま差し出して、しあわせに浸るだろう。」ということばは、私が彼を全く信頼していたから、彼が彼のありのままを差し出しだと読むこともできる。
私は吃音者である―言語障害者であることを彼に会う前に自分で受け入れていた。私が彼を全く疑うことなく信じ切っていたことが、彼が私のやることをすべて受け入れていったということにつながっているのだろうか?
それからもう一つ、「ことばが劈かれるとき」に次のことばがある。
「ー魯迅は自分を新しいものと考えたことはなかった。いつも古いものとしてとらえた。そしてその自分の古さを徹底的に憎むことによって、中国の古いものと闘った。ー・・・・・・
私は道傍で遊んでいる子どもを見た。ふいに涙がながれた。おれはもうダメだ。新しく生きれない。しかし、もう二度とこの子どもたちに、おれと同じ教育をさせない。」(p57)
また、どこかで「自分からは変われない。」と言ったり、「変わることは相手に突破されることだ。」と述べていたように思う。
竹内敏晴は、他者とのかかわりにおいて自分自身がともに変わってきた。私が竹内敏晴とレッスンをやったときには、私にとって、彼は地面のようなものであり、彼の存在は私の中でほとんど意識されない。私の体験が残っているだけだ。竹内敏晴が「あなた」として意識されているわけではない。しかし、竹内敏晴は自分が変わって行くのに他者とのかかわりを必要とした。
私にとって竹内敏晴は親のようでもあり、産婆のようでもあった。竹内敏晴が「あなた」として現れるのには離れている長い時間が必要だった。
竹内敏晴にとっては、レッスンとは「わたし」と「あなた」が自己同一性の系の項として現れるものであった。しかし、レッスンに参加した「あなた」である私にとって竹内敏晴は、「わたし」にとっての「あなた」として現れていたわけではない。竹内敏晴は地面であり、「私が生てくる」基盤であった。竹内敏晴にとっては、「あなた」が生まれることにより、「わたし』が生まれ、新たな自分自身を見出していった。
1995年の「老いのイニシエーション」での、「他者とは、私とは無縁のもの。ふれようにないもの、のことだ、と私は初めて目を据えるようにして見た」以後のレッスンは、変わったのだろうか?
20年近く竹内敏晴と全く連絡をとらずに来たが、レッスンを忘れていたわけではない。やっと、竹内敏晴を「あなた」として、「対話」を始めようとしたところで、彼に癌が見つかり、亡くなってしまった。
「『出会う』ということで、私の不十分な「対話」に応えてくれていた。「対話」はやっとこれから始まるのだろう。
竹内敏晴は生涯を通して、人とのかかわりの中で自分を新しくしていったと言えるだろう。
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