竹内敏晴のレッスンはスピリチュアルな性質のものであった。

 前回の稿の後、続きを書いていたある日、突然私が何で竹内敏晴にこんなにもいつまでも拘っているのかが分かったような気がした。それから何日が経って今はそれがすぐには思い出せないのだが、そのことについて書いてみようと思う。

 それは端的に言えば「悟り」ということである。一般に「悟り」は仏教やヒンドゥー教などの伝統的な形で語られてきた。竹内敏晴とのレッスンで起こったことを「悟り」というときには、それらとの関係には慎重でなければならない。
 竹内敏晴の実践はあたりまえのことであるが過去の人類の文化遺産を背景にしている。しかし、特定の伝統的なものによっているわけではない。彼は一旦ゼロの地点に立って、その時そこで生まれてくることで、レッスンを成り立たせてきた。それらのことをレッスンとしてことばにしてきたが、あくまで自分の体験をことばにすることでしか表現していない。
 彼は子供の頃に一時難聴のためにことばが聞こえない時期があったために、今自分が感じていること、対している事態をことばにするのにとても努力を要した。まず適切な単語を見出し、それらを並べ、順序をいろいろ変えて適切な文章にするところから出発した。そのことは「ことばが劈かれるとき」に詳しい。

 私が初めて竹内敏晴と会った1976年には、竹内敏晴に言語の問題があるとは夢にも思わなかった。竹内敏晴自身もその頃は自分が健常者の仲間入りをしたと思っていたと書いている。しかし、その後、自分は半障害者であると言った時期があり、「老いのイニシエーション」では、自分は障害者であるとはっきり述べている。今感じていることをその場ですぐ言葉にすることが困難なことは、ある部分では生涯続いたのではないかと思われる。
 しかし、竹内敏晴は一歩一歩生涯を通じて、成長を続けた。(彼は、成長ということばは使っていない。)それが彼のレッスンの方法である。

 私が竹内敏晴とのレッスンで学んだことの一番に来るのは「先に分からないところに立つ」ということであった。その地点に立つために「からだ」の準備をする。そのことしかできない。そして、準備をしてその時その場で生まれてくるもの任せるほかない。
 私はもの心ついたときに自分に吃音があった。私にはこの「先の分からないところに立つ」ということは、とても具体的に表れた。この「先の分からないところに立つ」ということが成立すると吃音が起こらないのである。15,6歳の頃、吃音を何とかするのを自分でやろうを決めて、言語障害学・病理学の分野に入ったが、そこではいろいろな英語や日本語の吃音に関する論文を読んだので吃音はその時点ではなおらないということが分かった。そして、自分が言語障害者であること受け入れた。
 言語障害の分野で何ともならなかった吃音が、竹内敏晴とのレッスンで3年ほどでほとんど吃らないような話し方を見出した。これは吃音を直そうとしたのではなく、結果的に吃らない話し方を見出した。(吃音についてはもっと言いたいこともあるがそれはここでは書かない。)

 私は「先の分からないところに立つ」ということを、生きる上で忠実に実行してきたようである。それは、ある意味では非常に単純なことでもあるが、非常に困難なことでもあった。

 竹内敏晴の最後の書「『出会う』ということ」を読んで、この「先の分からないところに立つ」ということが、別の文脈で現れた。この書から引用しよう。

 「『ある』は実体ではない。『無』から生成する。『あなた』は虚無から立ち現れる。わたしが目覚めなければ『ある』はない。むしろ、虚無あるいは意義を拡大して『空』が、初めてわたしに現れ始めたといってよい。」 (p101)

 これは竹内敏晴の最大の出来事、「ことばが劈かれるとき」体験を80歳を過ぎて振り返った時に書いたものである。「空」ということばが初めて明確に出てきた。

 さらにこの書の先の方で竹内敏晴は自我をマイナスとプラスの形があると述べているが、今はその詳しい説明なしに書いていく。

 「マイナスがあってプラスがあれば真ん中にゼロがあるというのは、簡便に過ぎるけれども、しかしわたしは真剣に『自我のゼロ地点』ということ考えたい。魯迅の生き方を考えると、マイナスの自我がプラスを含みつつ、自らをそして世界を見つつ立っている姿勢を思い浮かべることができる。禅でいう『悟り』や西田幾多郎の『純粋体験』、ほかにもいろいろ関連して考えることはあるけれども、自分の閉じ込められている空間に気がつくと同時に、突破して出ていく、あるいは出てしまっている、一人の人間として立っている通過地点としての、『自我のゼロ地点』を仮設してみたい。・・・・・・
 人が今までの自分の枠から外へ踏み出す。そのとき裸である。このとき自我は、プラスでもマイナスでもない、ゼロ地点に立っている。そして、世界が違って見える。そこから踏み出していったときに、何か新しい自我が生まれてくるだろう。そういう例のいくつかには目を見張るようなことがある。」(p209、215,216)

 ここで竹内敏晴は、自我のゼロ地点から踏み出したときに、踏み出したときに何か新しい自我が生まれてくるだろうと述べているが、それは、「自我」なのだろうか?
 このすぐ先で竹内敏晴は、「出会いにゆく巨人」について述べている。それはイエスのことばであったり、越州禅師のことであったりする。

 これまでの竹内敏晴は、執拗に「言語以前のからだ」に拘ってきた。 
 「わたしは第一次言語を語り出せるようになり始めた。あるいは、今まで習得してきた第二次言語を、第一次言語に還元して、『わたし』の表現として発語することへなんとか出発できた、ということだ。」(p115)
 ここで第一次言語とは、「今生まれつつあることば、生まれていく過程において意味を形成していくことばであって、息づいている、なまのままのことば」である。第二次言語とはくり返し使われ意義が社会的に確定したものであるとされている。(118)
 生まれた状況から切り離され「死んでいる」慣習的な第二次言語。「それをよみがえらせることによってのみ『言語以前のからだ』、すなわち『真正のことば』を生みだすからだは、制度としての言語を、自分にものにするー身につけるーことができる。」(p119)
 彼は自分のレッスンの一部はこのプロセスの執拗なくり返しであると述べている。

 しかし、竹内敏晴はイエスや越州禅師の話で一気に飛躍して言語を超えた世界のこと語っているのではないか?「真正のことば」を生み出す言語以前のからだが、制度としての言語をものにしたとき、それは言語を超えた何かを生み出すのだろうか?

 ここでは、「言語以前のからだ」から一気に言語を超えたものに飛躍するような言い方をしてしまったが、竹内敏晴が「からだ」を深く探求した経緯で、仏教の唯識論の阿頼耶識との関係を考えたり、カール・ロジャースがマルティン・ブーバーとの対談で語った次のようなことばを紹介していることを示す。
 「一人の人間における最も深層にあるものに行き着いたとき、そこにあるものは建設的であると最も確信できるもの、社会化やよりよき対人関係の発達などへと向かうものと最も最も確信できるものにほかなりません。」(p112)

 越州禅師の話の最後に竹内敏晴は次にように述べている。
「禅宗では師資相承を言う。弟子がいかなる地獄のあっても、そこに立ち会い問いを発するものを師というのであろう。出会うとき、人は白紙になり、裸になる。逆に言えば、裸になるために師がいるのだ。それを繰り返すことを悟りといい、意識のゼロ地点と言い、無ということに至ることであろう。」(p224,225)

  竹内敏晴とのレッスンで私に起こった変容、それは1980年前後に起こったことだ。それは、皮膚の内側だけが、「私」であるということではなく、その時その場で私が「知覚」していることが私であるという。例えば、目の前に苦しんでいる人がいればそれはそのまま私の苦しさとなる。私の「からだ」は知覚したことにより、常に膨らんだり、縮んだりしている。いわゆる、私と世界というふうに区別できない。
 世界は、いろいろなものや人や自分自身のからだの一部も同じように含まれたものとして、存在している。これは、「世界内」存在ということなのであろうか?
 やがて、知覚している所だけが世界であり、まるで暗闇を提灯を持って歩いていて、光に照らされた所だけが見えるように、知覚世界しかないようにないように感じられてきた。サーチライトが当たったところだけに世界が存在し、それ以外は暗闇になった。
 やがて、その中に「考える」や記憶などが、入ってきた。記憶によって、今知覚しているところ以外にも世界が存在していることは知っている。過去に様々な出来事、歴史があったことは知っている。ただ、それを思い出したり、「未来」を思うことは、今ここでの私である。

 この「知覚」しているところが「私」であり、それ以外のところが暗闇なるということは、基本的にそれ以来ずっと続いている。
 1984年に「生きることに向かって」と題された、竹内敏晴とのレッスンの生の記録では、知覚したところが「私」であると感じられていた。私が知覚した「世界」まで拡大したともいえるだろう。
 それが30年以上経って、ある時から、「世界」だけがあって、私として区別するものはないというふうに感じられるようになった。
 これには2015年の秋に、竹内敏晴の「『出会う』ということを読んだことが関わっている。そのことで、私はある意味で封じ込めていた、竹内敏晴とのレッスンで見出していた「からだ」を生き返らせた。

 竹内敏晴は、亡くなる直前の84歳で、自分のやってきたことを「空」とか「悟り」ということばで表すようになった。
 「ことばが劈かれる」体験を、最後に吟味したものを読むと、竹内敏晴のレッスンが「空」のもとに顕れるものを見ていた。基本的にスピリチュアルな性質ものであったと思い到った。
 私は竹内敏晴がレッスンで何が起こったのかということの内容にあまり興味を示さないことを不思議に思っていた。鳥山敏子とも、竹内敏晴は、レッスンに参加している人が何をどのように体験しているのか全然わかっていないなどと話したりしていた。
 竹内敏晴は、そこで起こったことに興味を示すのではなく、それが本当にその場で生まれてきたもの、「空」の次元で起こったことであるかどうかということ見ていたのだ。
 そのことは、私がレッスンをやる時にある意味では受け継がれている。私に残っているのは、その人が本当に自分自身であった時の瞬間である。そういう瞬間だけが、私の中に残っている。そういうものだけを極端に言えば見てきた。
 しかし、一方で、私は竹内敏晴とのレッスンで、ガチガチに固まったからだから出発し、徐々にからだが緩み動き始め、イメージが展開・拡大し、人との接し方か変わってきた。それは、私の体験として確実に残っている。何もない、先の分からないところに立つことによって、人はいろいろな体験をし変わっていく。私のトラウマは何かに集中したときに、自分が受け入れることができることだけが、自発的に顕れ、消えていった。

 このような体験があったため、私はレッスンを「心身統合」に関わるものであると長い間考えていた。自分がレッスンをやるようになっても、「からだ」ということで心身統合を見ているのだと、無意識に仮定していた。私の「変容」は謎のままだった。
 竹内敏晴が、「空」ということや「悟り」ということ、2009年に初めて明確に示したことにより、彼のレッスンが「空」のもとに顕れてくるものをみているのだと考えるようになった。
 たくさんの人が竹内敏晴とのレッスンに参加したにも関わらず、ほとんどというか全く、レッスンの体験が出てこないことを私は長年不審に思ってきた。それは竹内敏晴のレッスンが深い集中の中で行われるので、一人になったときに自分の体験をことばに出来ないのかと思っていた。しかし、それだけではなく、スピリチュアルな性質を持っていたことも影響していたのではないかと思うようになった。

 しかも、竹内敏晴自身が、自分のやっていることを「からだ」の追求として示してきた。亡くなる直前に遺書のような形で、レッスンでやってきたことを整理している。そこで初めて「空」や「悟り」ということが出てきた。
 そのことによって1980年前後に私に起こった「変容」が、竹内敏晴のいう「空」や「悟り」に関連付けて考えられるのではないかと思うようになった。
 実に35年の時間差がある。私はこの体験を抱えて、世界を右往左往してきた。竹内敏晴が、レッスンで実践としてやっていることをことばにするのには、これほど時間がかかることもあるのである。

 ケン・ウィルバーは、世界のさまざまな文化におけるスピリチュアルな伝統を取り上げ、「存在の偉大な連鎖」として示している。それらは、身体、心、魂、スピリットなどとして取り上げられている。そして、意識の高次な状態として、四つの、心霊(サイキック)、微細(サトル)、元因(コーザル)、非―二元(ノンデュアル)と名付け示している。

 竹内敏晴は、「ことばが劈かれるとき」ですでに次のように述べている。
 「 すれば、ことばは他者に向かう。・・・・・・ことばは他者のからだに届き、これを撃ち、これを刺激し、他者のからだを、あるいはその行動を、変えるものである、ということだ。そして、その働きは、裏返して見ると、そのとき、自己は自己から抜け出してゆく、ということである。自己は自己のこえを聞いてはいられぬ、自己のこえを聞くときは自己の内に留まることだから。自己がこえとして、行動として他者に向かって働きかけるとき、自己は自己を超え、自己を意識することを放棄するということである。私流に言えば、私が真に私として行動する(ことばを発する)とき、私はもはや私ではない。」

 また、「『出会うと』いうこと」では、「『木を見ていると木が自分に話しかけてくる』という言葉があって、初めて読んだ頃はどういうことかなと思ったが、実際そうなのだ。いっぽんの黒松が語りかけている、そういう言い方しかできないような形でこちらに入ってくる、迫ってくる。すでに黒松は『黒松』ではない、『あなた』である。」と述べた後で、さらりと次にように書いている。

 「つけ加えて言っておきたい。花を見たときに、花が笑う。まざまざと花である。自分というものはその時は消えている。一ぺんなくなる。」

 これらのことばは、ケン・ウィルバーの「非-二元」ということで述べていることを思い起こさせる。
ケン・ウィルバーのことばは、さまざまな伝統の中の観想の在り方を調べ、長く瞑想を続けた結果である。竹内敏晴も個人的には瞑想を続けていたと思われるが、レッスンそのものがある種の瞑想的な性質を帯びていたのではないだろうか?

 

 
 








 





 

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