「霊性」の発見-ヴィジョン・ロジックへ

 「新しい私」は竹内敏晴のもとで生まれた。そして、子どもが親の姿を見て育つように、「レッスン」を学んでいった。竹内敏晴は、親のようでもあり、産婆のようでもある。

 哀しくて情けないことであるが、40年後に「レッスン」を初めて根底的に見直している。
 
 竹内演劇研究所が解散してすぐに、私にはレッスンを何とか学問的なものとつなげないといけないという気持ちが起こっている。

 1976年から始めたレッスンを1983年にもうここでは何もすることがないと思い、一旦辞めた。

 私は共産党家庭に生まれた。両親とも共産党員であった。特に母の方は祖父の時代からマルクシズムにふれていた。私はひたすら革命の戦士になるように育てられた。
 しかし、私にはもの心ついて以来の吃音があり、結果的にはそのことが家の共産党文化から離れることにつながった。中学3年生の時、1年間東京の叔父夫妻のところにおいてもらい、夜吃音矯正所に通った。
 母の弟である叔父の家庭はカトリック家庭だった。母方の祖父は京都大学で川上肇のもとで33歳までいた。川上肇はキリスト者からマルクシズムへ生涯かけて変わった人である。祖父の子どもは姉はマルクシズム、弟はカトリックに帰依した。

 私は1年間吃音矯正所に通い、よくなったように思った。しかし、実家に戻るとすぐに吃音はぶり返した。それも吃音矯正所でいろいろな人の吃音にふれたせいか、前よりも悪化したような気がした。
 子どもの頃より、私の家は共産党の人たちの集会所だった。高校生になり、聞くともなく集会の話を聞いていると、みんな立派なことを言っているが、みんな同じようなことを言っている。この人たちは本当に自分で考えているのだろうか?という疑問が出てきた。

 これは私に吃音があり、それを何ともできなくて、私は他の人とは違うのだという意識がでてきたことに関係していると私は思っている。成人の吃音者は人口の1%である。

 私は家の共産党文化から離れていったが、行くところはどこにもなかった。
 高校生になって吃音がぶり返したときに、吃音は意図的には治らないんだと直感した。そして自分でそれを研究してよくなろうと思った。私はその後吃音=障害だけを抱えて生きていたのだと思
う。
 私には何もないと思っていた。小学生の時代の農村の子どもたちの中での遊びの幸福な時間以外は。
 しかし、大学生の時にいろいろなポストモダンの芸術に触れて何とか生き延びていた。
 社会人になった頃、ファンタジーがたくさん翻訳されるようになり、面白くて夢中で読んだ。それを共産党文化にそのままいる弟や妹に紹介しても全然興味を示さない。叔父夫妻の子どもたちに読ませると夢中になって読んでくれた。その家では私の文庫が出来た。

 竹内敏晴に出合ったのはこのような状態だった。

 ケン・ウィルバーは「進化の構造」(1995/1998)で、世界が物質圏、生物圏、心圏と発現してきたことを述べて、世界観を人間の場合、呪術的、神話的、合理的、ケンタウロス的に分けて論じている。
 そして、現代が合理性からヴィジョン・ロジックへの新しい統合を試みている時期であることを述べている。

 「ヴィジョン・ロジックによる世界観あるいは世界空間を私はまた『実存的』そして『ケンタウロス的』と呼ぶ。・・・ ケンタウロスというのは、ギリシャ神話に出てくる半人半馬の動物で、・・・、統合された身体と心または生物圏と心圏のシンボルとしたものである。・・・・・・
 今、全世界的な規模で緊急に必要とされているのは、ヴィジョン・ロジック統合的な力であって、
・・・ケンタウロス的/ 惑星的な世界観を備えたヴィジョン・ロジックこそが、生物圏と心圏の統合、惑星意識の超国家的な組織の実現、エコロジカルなバランスの必要性の本当の認識、制約のない、また強制のない世界的な対話の実現、非支配的で、非弾圧的な連邦国家の実現、世界的な規模でのコミュニケーションの流れ、本来的な意味での世界市民の出現、女性というエイジェンシーなどの希望を叶えることができる。これは心圏と生物圏のおける男性と女性の統合である。私の考えでは、これらはすべて私たちの集合的な未来に待ち受ける、本当に興味深い高次のトランスパーソナルな意識形態の土台となりうるものだ。」(「進化の構造1p295~296)

 私の竹内敏晴とのレッスンで起こった変容は、私にこのケンタウロス的状態に道を開いた。

 ケン・ウィルバーは合理主義の段階でのこととして、マルクシズムについて以下のように述べているところがある。

 「しかし、一つの大きな例外があった。歴史上、今日まで、一つだけ真剣な地球的な社会運動と言えばマルクシズムによる国際労働運動であった。それは長く続く、辛抱強い、筋の通った強さを持っていたが、それと共に致命的な弱さも持っていた。強さとは、それが人種、国籍、信条、神話、性別に関わりなく人間が共通に持つ性向を発見したことである。それは、人間が何らかの社会労働のよって自己の身体的生存を確保しようとすることである。私たちは食べなければならない。こうして社会労働は私たちを同じ船に乗せ、私たちを世界市民となすのである。・・・・・・
 ・・・その致命的弱さとは、文化的な営為を経済的、物質的な次元(物質圏)の上に、すなわち社会労働や物質交換の上に根付かせることをしなかったこと、逆に文化的な営為を低位の分母に還元したこと、すなはち物質的な生産、物質的な価値、物質的な手段に還元したことにある。特に霊性を、大衆にとって阿片の役割しか持たない、としたことである。」(「進化の構造1P308~308)

 竹内敏晴とのレッスンは、私を「内面」に向かわせた。それらは「からだ」として具体的に現れた。

 1979年に神戸の湊川高校で「田中正造―矢中村」をやったことは、竹内敏晴にとっても、私たちからだ”79にとっても大きなことだった。この体験は私に大きな変容をもたらした。
 私はレッスンをやるようになった。レッスンに参加するようになってわずか3年半後である。それも少し後には、竹内演劇研究所の「からだとことばの教室」には、50人以上の人が参加するようにな
っていた。
 1980年にやったブレヒト原作の「場末の天使ーセチュアンの善人」の舞台の最後で、私はこの舞台がからだ”79~”80のためではないのだということに気がつき、竹内敏晴から心理的に離れるようになった。

 竹内敏晴は、湊川高校や南葛飾高校の被差別部落や在日朝鮮人や障害を持った子弟を含む青年たちの「からだ」に、管理からこぼれたゆえの生々しさを見出し、彼の「からだ」の生々しさに等しいものを発見した。

 私は竹内敏晴が南葛飾高校(定時制)の演劇の授業に行くのについて行っていた。しかし、最後まで行くことができなかった。
 生徒たちの「からだ」の動きに私がついていけなかった、私の手に負えないように感じたからなのか、よくわからないところがある。障害を持った人たちもいたのだが、竹内演劇研究所でのように障害を手がかりに関わろうというふうにはならなかった。

 ここが竹内敏晴と私との一旦の分かれ道になった。

 私は自分なりにやらないといけないと思い、1982年に自分で責任をもってやるクラスを1年かけてやった。中間発表で仮面のレッスンをやり、一年の最後にクラウン(道化)の発表会をやった。これは一人一人が自分で行動する「核」を見つける作業としてやった。
 1993年に出した「からだとことばのレッスン入門」では、「地球市民として自分を耕す」という副題をつけた。

 私の父親は瀬戸内海の小さな島の出である。祖父の時代までは代々漁師か船員をしていた。数名しか旧制中学へ行かない時代に、父は対岸にある四国本島の「ガッコ」に入った。その後呉や大阪などで働きながら、大学を目指した。
 竹内敏晴と木田元の対談「待つしかないか。二十世紀の身体と哲学」を読んでいて、東北大の哲学科の話が出てくる。その中に高橋里美という名前が出てくる。最初読んだ時には、すぐには気がつかなかったけれども、ある時この高橋里美という名前を父が言っていたことを思い出した。
 父は高橋里美に学ぼうとして東北大学を目指したのだが、試験に落ちた。そして、東京文理大学(後の東京教育大学、今の筑波大学)に入った。大学ではヘーゲルの研究をしていたという。 
 高橋里美は調べてみると、ドイツでフッサールから現象学を直接学んでいる。
 父は大学卒業直前に召集された。シンガポールから上陸し、マレー半島を北上し、タイからビルマ(現ミャンマー)に入った。7年間戦場にいたという。そして、最後にあの無謀なインパール作戦に食料もなしに駈り出される。インパールを目の前にして総崩れして、蛇や蛭のたくさんいるジャングルや谷川を逃げ戻る。その道は白骨街道と言われた。父はマラリアに罹り気を失うが、戦友が背負ってくれて、野戦病院で気がつく。その頃父は臨死体験をしたそうである。きれいなお花畑を歩いていたと。

 私の名前は「哲司」と言い、哲学を司る。すぐ下の弟は理化夫という名前をつけられた。物理学科を卒業し、高校で物理や化学の教師をしていた。これらの名前の付け方は父親の世界観を表している。

 一緒に竹内敏晴とのレッスンに参加した鳥山敏子は、子どもの頃ナムアミダブツを自然に唱えるような環境で育った。高校生の頃マルクシズムにふれ、大学生の頃は全力で参加する。しかし、教師になりしばらくして、自分の判断でマルクシズムから離れる。
 竹内敏晴とのレッスンで、彼女は「霊性」を再発見する。そして、それは「賢治のシュタイナー学校」として、結実する。

 私の場合は全く霊性を幻想とする文化の中で育ったので、レッスンで自分に起こった変容を「霊的な」ものが含まれているということ、認識するのにとても時間がかかってしまった。

 石牟礼道子は「苦界浄土」の中で、故郷を出ていくものを、「出郷」、「出世」と呼び、学校を「ガッコ」と呼ぶ世界を紹介している。
 私の父は、「まだ魂の定まらむ」若い頃に出郷した。「ガッコ」へ行き、教師になった。私はその延長上に自分の生き方を無自覚に進めていた。

 石牟礼道子の文章を読んでいると、竹内敏晴の「からだ」の生々しさを思い浮かべる。
 今回この竹内敏晴とのレッスンを見直す中で、不知火の海は、父親の生まれた瀬戸内海の島の世界とつながっていると思った。
 子どもの頃に、お正月やお盆や秋祭りに島に行ったときのことが思い起こされる。おばさん、おばあさんたちが集まって3日ほど延々と続く夜の御詠歌の集まりが忘れられない。
 私の中にも、「からだ」の生々しさはある。








 





 

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