「私としては、まったくのオーソドキシーをただ歩いてきたつもり」と、竹内敏晴は亡くなる直前の病床でのインタビューで答えている。また、竹内レッスンに普遍性はあるかと聞かれて、「普遍性はある。」と答えている。(「レッスンする人」)
私はこれを二つの観点から捉えてみたい。この二つはお互い深く関連している。
一つは『悟り』あるいは「空」ということから。
「空」についてはすでに「研究ノート1『空』の基底に現れる『からだ』」で取り上げている。これは竹内敏晴が、「ことばが劈かれる」体験を最後に見直したときに、・・・「『空』が、初めてわたしに現れ始めたといってよい。」と述べているところがある。
「悟り」については、次の文章などでふれられている。
「禅宗では師資相承を言う。弟子がいかなる地獄にあっても、そこに立ち会い問いを発するものを師というのであろう。出会うとき、人は白紙になり、裸になる。逆に言えば、裸になるためには師がいるのだ。それを繰り返すことを悟りといい、意識のゼロ地点といい、無ということにいたるのであろう。」(「『出会う』ということ」P235)
「『出会う』ということ」では、禅家のことばが取り上げられている。
「私は越州禅師の『老婆親切』を思い起こす。禅家にとっては、修行専一の向上門を超えて、庶民に法を説く降下門、十牛図の最終十番目の段階『入てん垂手』―手ぶらで店(世俗の巷)へ入っていく―の働きに当たるだろう。」
また、「生きることのレッスン」では、「『悟り』は、開いてわかっただけじゃ駄目で、世俗の世界と生き生きと交流できなければ駄目だというのです。そうして、そこでまた、『悟り』の種子をまく。」と語っている。
竹内敏晴は若き頃禅宗を目指したことがある。
「「老いのイニシエーション」には、「瞑想」をやっていることが書かれている。
その「老いのイニシエーション」(1995)で、「アーラヤ識」について、次のように述べている。
「アーラヤ識とは、『万法唯識』、一切の存在者を根源的に生み出すところの意識の深層領域である。・・・・・・
・・・ 井筒俊彦によれば、『無数の潜在的『意味』形象が、瞬間ごとに点滅し、瞬間ごとに姿を変えつつ、下意識の闇のなかに渦巻く』そのありさまをヴァスバンドゥ(世親)は『恒に転ずること爆流の如し』と言う。あらゆる人間的な営みは、すべてこの爆流に飲みこまれ転変するのだがら解脱はあり得ない、というアサンガ(無着)のことばのリアリティは凄まじい。
では、どうしたらアーラヤ識の転換は可能であるか。アサンガはたった一つの道を示す。
―最も清浄なる法界より流れ出た正聞薫習、種子となるが故に、出世心(人間の世界を超える目覚めの心)生ずることを得。(長尾雅人『摂大乗論』―和訳と評釈』および玉城訳を参照)
薫習とは香りが衣に匂いつくように身にしみていくことだが、聞くことの薫習とは、耳で経を聞いて理解するという次元のことではない。深い集中の中で『(人間の身体という如き)ある種の依り所』において起こることである。
・・・・・・
・・・ 井筒俊彦によれば、大乗仏教のその後の発展においてはアーラヤ識はいわば『渾沌』であって、その先に『空』があり、そこから再び現世間に立ち戻る働きが起こるのだという。だが、この場合のおいてますます明らかに、『からだ』は徹底的に無化され、その果てに、逆転して、改めて見出され、よみがえることになるわけだろう。」
この段階では、竹内敏晴は「『からだ』は徹底的に無化される」と述べていて、「空」については、「その果てに、逆転して、改めて見出され、よみがえるわけだろう。」と推測の形で表現している。
それが、「『出会う』ということ」では、はっきり「空」ということや『悟り」が語られている。
竹内敏晴はいつ「悟り」を得、「空」を見出したのだろう?
私たちのレッスンをやっていた頃(1976年~1983年)、「老いのイニシエーション」で書かれている時期(1986年~1995年)、「『出会う』ということ」らが書かれた時期(2005年~2009年)?
竹内敏晴は、「一つの強烈な体験」として次のように述べている。
「一つの体験はたとえて言えばトルソーのようなもので、その時見えたものは一つの光点から強烈に照れされた形が浮かび上がって意識に刻みつけられるが、ある日別の光源から光が当たると全く気づいてもいなかった別の面がまざまざと見えてくる、ということがある。ひとつの鮮やかな体験のうちには、多様な局面の断片の渾沌と、多くの芽吹きとが含まれていて、その当座現れた光線による意識化が実った後から、多くの胚種が、また多角的な稜角が姿を現してくるものだ。これがいくたびも重なり自覚が重層化してゆくことが、その人にとって「ものごと」が見えてゆくこと、からだが変わってゆくこと、そして歴史を刻むということであり、あえて言えば、成熟してゆくということなのだろう。」
彼はこれを、彼の「ことばが劈かれる」体験を振りかえり・見直す時に書いている。
私と竹内敏晴の直接的なレッスンは、1983年には終わった。
私には1979年から1981年ごろまでに大きな「変容」が起こった。それについては「竹内敏晴とのレッスンで起こった私の変容」として書いてきた。
私には、この時に「悟りの種子」がまかれたのであろう。
しかし、竹内敏晴は、この時には「空」、「悟り」を自覚していない。
私は私に起こった変容について、ことばにして彼に1984年には渡している。しかし、その時はそれに対して何の応答もなかった。亡くなる直前の2009年の「『出会う』ということ」でやっと応えてくれた。
それまで何もなかった私は、短い間の集中的なレッスンで起こったことを抱えて、一人ヨロヨロしながら生きてきたのだった。
私は「『出会う』ということ」を読んで、やっとレッスンで自分に起こった「変容」について、ケン・ウィルバーの示唆を経ながら、向かい合って考えることができるようになった。
私はこれを二つの観点から捉えてみたい。この二つはお互い深く関連している。
一つは『悟り』あるいは「空」ということから。
「空」についてはすでに「研究ノート1『空』の基底に現れる『からだ』」で取り上げている。これは竹内敏晴が、「ことばが劈かれる」体験を最後に見直したときに、・・・「『空』が、初めてわたしに現れ始めたといってよい。」と述べているところがある。
「悟り」については、次の文章などでふれられている。
「禅宗では師資相承を言う。弟子がいかなる地獄にあっても、そこに立ち会い問いを発するものを師というのであろう。出会うとき、人は白紙になり、裸になる。逆に言えば、裸になるためには師がいるのだ。それを繰り返すことを悟りといい、意識のゼロ地点といい、無ということにいたるのであろう。」(「『出会う』ということ」P235)
「『出会う』ということ」では、禅家のことばが取り上げられている。
「私は越州禅師の『老婆親切』を思い起こす。禅家にとっては、修行専一の向上門を超えて、庶民に法を説く降下門、十牛図の最終十番目の段階『入てん垂手』―手ぶらで店(世俗の巷)へ入っていく―の働きに当たるだろう。」
また、「生きることのレッスン」では、「『悟り』は、開いてわかっただけじゃ駄目で、世俗の世界と生き生きと交流できなければ駄目だというのです。そうして、そこでまた、『悟り』の種子をまく。」と語っている。
竹内敏晴は若き頃禅宗を目指したことがある。
「「老いのイニシエーション」には、「瞑想」をやっていることが書かれている。
その「老いのイニシエーション」(1995)で、「アーラヤ識」について、次のように述べている。
「アーラヤ識とは、『万法唯識』、一切の存在者を根源的に生み出すところの意識の深層領域である。・・・・・・
・・・ 井筒俊彦によれば、『無数の潜在的『意味』形象が、瞬間ごとに点滅し、瞬間ごとに姿を変えつつ、下意識の闇のなかに渦巻く』そのありさまをヴァスバンドゥ(世親)は『恒に転ずること爆流の如し』と言う。あらゆる人間的な営みは、すべてこの爆流に飲みこまれ転変するのだがら解脱はあり得ない、というアサンガ(無着)のことばのリアリティは凄まじい。
では、どうしたらアーラヤ識の転換は可能であるか。アサンガはたった一つの道を示す。
―最も清浄なる法界より流れ出た正聞薫習、種子となるが故に、出世心(人間の世界を超える目覚めの心)生ずることを得。(長尾雅人『摂大乗論』―和訳と評釈』および玉城訳を参照)
薫習とは香りが衣に匂いつくように身にしみていくことだが、聞くことの薫習とは、耳で経を聞いて理解するという次元のことではない。深い集中の中で『(人間の身体という如き)ある種の依り所』において起こることである。
・・・・・・
・・・ 井筒俊彦によれば、大乗仏教のその後の発展においてはアーラヤ識はいわば『渾沌』であって、その先に『空』があり、そこから再び現世間に立ち戻る働きが起こるのだという。だが、この場合のおいてますます明らかに、『からだ』は徹底的に無化され、その果てに、逆転して、改めて見出され、よみがえることになるわけだろう。」
この段階では、竹内敏晴は「『からだ』は徹底的に無化される」と述べていて、「空」については、「その果てに、逆転して、改めて見出され、よみがえるわけだろう。」と推測の形で表現している。
それが、「『出会う』ということ」では、はっきり「空」ということや『悟り」が語られている。
竹内敏晴はいつ「悟り」を得、「空」を見出したのだろう?
私たちのレッスンをやっていた頃(1976年~1983年)、「老いのイニシエーション」で書かれている時期(1986年~1995年)、「『出会う』ということ」らが書かれた時期(2005年~2009年)?
竹内敏晴は、「一つの強烈な体験」として次のように述べている。
「一つの体験はたとえて言えばトルソーのようなもので、その時見えたものは一つの光点から強烈に照れされた形が浮かび上がって意識に刻みつけられるが、ある日別の光源から光が当たると全く気づいてもいなかった別の面がまざまざと見えてくる、ということがある。ひとつの鮮やかな体験のうちには、多様な局面の断片の渾沌と、多くの芽吹きとが含まれていて、その当座現れた光線による意識化が実った後から、多くの胚種が、また多角的な稜角が姿を現してくるものだ。これがいくたびも重なり自覚が重層化してゆくことが、その人にとって「ものごと」が見えてゆくこと、からだが変わってゆくこと、そして歴史を刻むということであり、あえて言えば、成熟してゆくということなのだろう。」
彼はこれを、彼の「ことばが劈かれる」体験を振りかえり・見直す時に書いている。
私と竹内敏晴の直接的なレッスンは、1983年には終わった。
私には1979年から1981年ごろまでに大きな「変容」が起こった。それについては「竹内敏晴とのレッスンで起こった私の変容」として書いてきた。
私には、この時に「悟りの種子」がまかれたのであろう。
しかし、竹内敏晴は、この時には「空」、「悟り」を自覚していない。
私は私に起こった変容について、ことばにして彼に1984年には渡している。しかし、その時はそれに対して何の応答もなかった。亡くなる直前の2009年の「『出会う』ということ」でやっと応えてくれた。
それまで何もなかった私は、短い間の集中的なレッスンで起こったことを抱えて、一人ヨロヨロしながら生きてきたのだった。
私は「『出会う』ということ」を読んで、やっとレッスンで自分に起こった「変容」について、ケン・ウィルバーの示唆を経ながら、向かい合って考えることができるようになった。
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