「私にとって、たった一つはっきりしているのは、『からだ』ということだけだった。メルロ・ポンティの現象学によって目を開かされ、レッスンによって「ことばが劈かれる」と共に一気に現れた『からだ』。私は「からだ」としてここにいる。『からだ』が見、『からだ』が語り、『からだ』が働きかける。『主体としてのからだ』が、メルロ・ホンティによって、目覚増された私にとって最大のことであり、それは同時に客体であり、間主観性のおいて生きる、多義的な存在である。私はたった一つ、それしか出発する地点を持っていなかった。(「老いのイニシエーション」P31)
竹内敏晴により、繰り返し発せられる「からだ」ということば、これをどう捉えるか?
竹内敏晴は生後1年足らずで、耳の病気に苦しむようになる。中耳炎を悪化させ、難聴になる。それがどれほどの難聴だったのかはよく分からない。良くなったり悪くなったり繰り返していたようだ。本は読んでいたようだ。
小学校5年生の時にプールに入り、次の夏に、耳の状態は一気に悪くなった。そして、「中学一年生の秋から中学四年生の冬まで、私はほとんど完全なツンボだった。」とある。
中学4年生の時に新薬ができ、聴力が恢復し始めた。
今野哲男が聞き手となった「レッスする人」によると、12歳ごろまでは、耳は聴こえたり、聴こえなかったりしていたようであるが、しゃべっていたようである。
「聴力は正常人に比べて五、六十パーセント恢復してきた。しかし、聴力が恢復することと、聞くことができる、ということは別のことである。・・・・・・
まして、話をすることは、聴力が生まれてからやっと始まる。」(「ことばが劈かれるとき」P37)
竹内敏晴の「ことば」への努力がここから始まる。
一方、「レッスンする人」によると、この全く耳の聞こえなかった時期に、幾何学が得意であったことが語られている。
「中学五年生になると立体幾何というのがありました。・・・・・・ 立体幾何というのは、図面に描くように考えるのではなく、立体ですから集まりで考えないといけない。そこが面白くて・・・・、私だけ一人だけ一生懸命授業を聴いていました。」
数学でも代数はだめで幾何学だけとも述べている。
さらに、竹内敏晴は13才で弓を始め、16歳で当時全国で最年少と言われる3段になった。
これらは全く耳の聞こえなかった時期に起きたことである。
久保隆司の「ソマティック心理学」によると、「・・・神経科学者ギードの思春期の脳(前頭前野)の研究が知られています。脳は、成人の95パーセントの大きさに成長する6歳ごろまでで基本構成が決定されると考えられてきたのですが、女性で11歳、男性で12歳ごろにシナプス結合が急激に増加しだし、大脳新皮質の厚みが増し、そして20歳ごろまでにはフルーニング(刈り込み、剪定)で調整されていくのです。(Gieddon et all 1994、2004)よって、ギードは10代に起きるシナプス結合の変化によって、脳の基本構造が決定され、残りの人生に大きな影響を与えることになるので、10代に何をするのか、また何をしないのかは非常に大きな意味を持つと主張しています。
・・・・・・
脳の可塑性については、・・・神経科学の分野ではまだは定説がないようです。しかし、個人のパーソナリティが、遺伝的に決められた構造と、外部環境(特に社会的は人間関係)との体験的な交流のたえざる相互作用によって形成されていくことは確かです。」
竹内敏晴の13歳から16歳まで4年間の全く耳の聞こえなかった時期に、左半球の言語野への聴覚的刺激が制限され、ことばに障害をもたらした。
それと共に、右半球の大脳皮質の発達を促したことが起こったのではないだろうか?
言語環境から完全に隔離された子どもに言語獲得の障害が起こり、その際右半球の機能が発達することが知られている。(Lenneberg,1967/1974)
幾何学は、図形や空間を研究する学問である。脳の右半球は、図形や絵、音楽やイメージやひらめきを担当する。
竹内敏晴の弓の話に入る前に、後年「からだ」を言うようになることに関わると思われるエピソードにふれる。弓の話にもつながっている。(「レッスンする人」P99~p101)
中学で剣道をやった時のこと。
「それで私は小柄でしょう。なのに、一番最初に剣道部の副将が出てきた。・・・・・・するとウワーッと叫びながら向こうから前に出てきて、彼のからだにポカっと空いている場所が見えた。そこをヒョと突いたら、竹刀の先がまともに当たって、副将はバーンと吹っ飛びました。」
次は銃剣術の話、中学4年生。
「・・・それぞれが防具をつけて、突くところはそこだけという、技術も何もない武術です。これを順々にやれというので出て行ってエイっとやったら、またポンと入ってしまった。次の相手にもポン、そのまた次の人もポン。どういうわけか全部私が勝っちゃうんです。この時も、見ているとそこが空いているのが見えるから突くだけです。」
最後は大人になってからのフェンシングの話。
「・・・ たとえば『ハムレット』なんかでもフェンシングの場面があります。・・・その稽古を横から見ていると、教えていた人が竹内さんもやってみませんかという。じゃあ格好だけでも習ってみようと思って、こうやるんだと教えてもらい、ふと相手をみたらまた空いているところがある。そこをスッとやったらお師匠さんに入っちゃったわけです。この時も目がいいですねってほめられたけれども、目がいいというより、自分の実感で言うと、単純にそこが空くのが見えるのです。空いているからそこへ行くという、実はそれだけの話です。」
これらの「空いている」のが見えるということの不思議さ。竹内敏晴自身は、「本当は目で見た時にはからだが動いている感じなんです。」と述べている。
弓の話で、20射を全部あてるという体験をはじめてしたときのことをしゃべっている。
「その最初を、私は中学五年生だかの時、戦時下で確か警戒警報(あるいは防空訓練であったかも知れないが)で、道場に電燈がつかなくなった時に、やった。日が暮れてきて、十五、六射からはまっ暗になった。私はまっ暗な道場にピタと立ったまま弓を射続ける。的に当たった矢は、友人がとってきて手渡ししてくれる。一歩でも動くとわからなくなり世界が崩れてしまう。私はまっ暗な中で弓を打ち起こし、引きしぼり、そして、心機を充実し、澄まして放つ。当たる。これが、たぶん最後の四本ない五本である。足さえピタと決まれば、からだのバランスはおのれを知って、意識を超えた正確さで自ら動くものなのだ、ということについて私は信じるものを持っている。」(「レッスンする人」P132)
これらは武術の名人の若き日のことのようにも思えるが、幾何が得意だったことも含めて、聴覚に障害があったことで、右半球が通常より発達したのではないかと推測する。フェンシングの話を除いてすべて全く耳が聴こえなかった時期前後のことである。
抗生物質が日本に入ってきて、竹内敏晴の耳が16歳の終わりごろから聞こえるようになる。
「聴力が正常人に比べて五、六十パーセント恢復してきた。しかし、聴力が恢復することと、聞くことができる、ということは別のことである。なぜなら、音は、注意をほかのに奪われているときには、聞こえない。私たちのからだは、つまり音を選んでいるのであって、無差別に音が飛びこんでくるわけではない。だから よく『聞く』ためには、持続した注意の訓練がいるのだ。」
竹内敏晴の、音としてことばをとらえるための意識的な努力がここから始まる。
「・・・・・・ 相手の口をまっすぐに見つめて、唇の動きと、わずかに鼓膜に響いてくるこえを重ね合わせて、音を聞き分けること。これはひどく恥ずかしいことだった。だが、相手の好奇心を正面からあびながら、しかし、視線を合わせるのを確実に避ける方法でもあった。だだこれは持続するひどく苦しい緊張を必要とした。よく読唇術などというが、普通、人々は発音の際にそれほど明確な唇の形を示すものではない。・・・・・・ 日本語の場合、発音発声は、普通思いこまれているほど唇の形に依存しているわけではなく、むしろ口腔内の形と、舌の動きに多く頼っていることが最近ほぼ明らかになっている。当然、唇を見つめるということは、唇の形自体よりもその後ろにある相手の顔やからだの微細な動きを感じとるということになる。ペナルティ・キックを迎えるゴールキーパーのように、ある可能性に向かって身構えるのだ。そして、はりつめた、暗い、可能性の領野に、わずかな発音の切れはしが突き刺さってきたとき、それを核にして、ある意味が一挙に結晶し、姿を現す。相手のことばをとらえ、理解することは、だから、一種の賭けである。ことばとは決して一定の意味を運ぶ安定した通貨ではなく、一つの結晶作用だ。この相手の唇を見つめる作業はその後およそ二十五年間つづいた。そしてことばについての私の姿勢に多分決定的な支配力を持ったと思う。」
「呼びかけ」のレッスンというのがある。数人の人に前後左右にずれて背中向きに座ってもらい、その中の一人を選び、その人にこえをかける。そして、自分だと思ったらその人は手を挙げる。自分ではないと思った人はこえがどのように聞こえてきたのかを指で示す。
この時、なかなか選んだ人に声が「届かない」。前に越して行ったり、後ろに落ちたり、ほかの人の方へ行ったりさまざまである。
この「呼びかけ」のレッスンでは、最初のステップでは、こえを聞き分けるということが大きなテーマになる。声は聞こえるが、「私」に呼びかけられているかどうかということに注意を集中する。そうすると、「私」が選ばれたとしてもこえはなかなか届かない。しかし、こえがどのように聞こえてくるか、どちらに行ったのかということは明瞭に分かるようになる。それは一種の驚きである。
次の段階では、呼びかける人の方を問題にする。これはなかなか難しい。一瞬のうちに呼びかけることばを選び、呼びかける人をえらばないといけない。ほとんどの人が自分が選んだ人が、答えないという事実に直面する。
このレッスンは、相手の人に本当に「ふれて」いるかどうかということを吟味することがテーマである。普段私たちは、相手が自分に話しかけているのかどうかなどということは考えない。自分の方に向いているから、自分の他に誰も人がいないからと、自分に話しているのだと推測しているだけである。自分の方も自分の声が相手に届いているかどうかなどとは気にしていない。(今の私は違うが。)
私がこのレッスンをやる時にいつも思い浮かべるのは、竹内敏晴が相手にこえ・ことばをかけたときに、相手に何らかの反応、からだの変化が生じることで、自分のこえ・ことばが届いたかどうかを判断していた時期の姿だ。呼びかけれられれば、相手には何らかの変化、反応、応答が起こる。
「相手の口をまっすぐに見つめて、唇の動きと、わずかに鼓膜に響いてくるこえを重ね合わせて、音を聞きわける・・・・・日本語の場合、発声発音は、普通思いこまれているほど唇の形に依存しているわけではなく、むしろ、口腔内の形と、舌の動きに多くを頼っていることが最近ではほぼ明らかになっている。だから、当然、唇を見つめるということは、唇の形自体よりもその後ろにある相手の顔やからだの微細な動きを感じるということになる。」
竹内敏晴のこの唇を見つめる努力は25年間続いた。これが、私は後年彼の「からだとことばのレッスン」が生まれる出発点になったのだと思う。
竹内敏晴により、繰り返し発せられる「からだ」ということば、これをどう捉えるか?
竹内敏晴は生後1年足らずで、耳の病気に苦しむようになる。中耳炎を悪化させ、難聴になる。それがどれほどの難聴だったのかはよく分からない。良くなったり悪くなったり繰り返していたようだ。本は読んでいたようだ。
小学校5年生の時にプールに入り、次の夏に、耳の状態は一気に悪くなった。そして、「中学一年生の秋から中学四年生の冬まで、私はほとんど完全なツンボだった。」とある。
中学4年生の時に新薬ができ、聴力が恢復し始めた。
今野哲男が聞き手となった「レッスする人」によると、12歳ごろまでは、耳は聴こえたり、聴こえなかったりしていたようであるが、しゃべっていたようである。
「聴力は正常人に比べて五、六十パーセント恢復してきた。しかし、聴力が恢復することと、聞くことができる、ということは別のことである。・・・・・・
まして、話をすることは、聴力が生まれてからやっと始まる。」(「ことばが劈かれるとき」P37)
竹内敏晴の「ことば」への努力がここから始まる。
一方、「レッスンする人」によると、この全く耳の聞こえなかった時期に、幾何学が得意であったことが語られている。
「中学五年生になると立体幾何というのがありました。・・・・・・ 立体幾何というのは、図面に描くように考えるのではなく、立体ですから集まりで考えないといけない。そこが面白くて・・・・、私だけ一人だけ一生懸命授業を聴いていました。」
数学でも代数はだめで幾何学だけとも述べている。
さらに、竹内敏晴は13才で弓を始め、16歳で当時全国で最年少と言われる3段になった。
これらは全く耳の聞こえなかった時期に起きたことである。
久保隆司の「ソマティック心理学」によると、「・・・神経科学者ギードの思春期の脳(前頭前野)の研究が知られています。脳は、成人の95パーセントの大きさに成長する6歳ごろまでで基本構成が決定されると考えられてきたのですが、女性で11歳、男性で12歳ごろにシナプス結合が急激に増加しだし、大脳新皮質の厚みが増し、そして20歳ごろまでにはフルーニング(刈り込み、剪定)で調整されていくのです。(Gieddon et all 1994、2004)よって、ギードは10代に起きるシナプス結合の変化によって、脳の基本構造が決定され、残りの人生に大きな影響を与えることになるので、10代に何をするのか、また何をしないのかは非常に大きな意味を持つと主張しています。
・・・・・・
脳の可塑性については、・・・神経科学の分野ではまだは定説がないようです。しかし、個人のパーソナリティが、遺伝的に決められた構造と、外部環境(特に社会的は人間関係)との体験的な交流のたえざる相互作用によって形成されていくことは確かです。」
竹内敏晴の13歳から16歳まで4年間の全く耳の聞こえなかった時期に、左半球の言語野への聴覚的刺激が制限され、ことばに障害をもたらした。
それと共に、右半球の大脳皮質の発達を促したことが起こったのではないだろうか?
言語環境から完全に隔離された子どもに言語獲得の障害が起こり、その際右半球の機能が発達することが知られている。(Lenneberg,1967/1974)
幾何学は、図形や空間を研究する学問である。脳の右半球は、図形や絵、音楽やイメージやひらめきを担当する。
竹内敏晴の弓の話に入る前に、後年「からだ」を言うようになることに関わると思われるエピソードにふれる。弓の話にもつながっている。(「レッスンする人」P99~p101)
中学で剣道をやった時のこと。
「それで私は小柄でしょう。なのに、一番最初に剣道部の副将が出てきた。・・・・・・するとウワーッと叫びながら向こうから前に出てきて、彼のからだにポカっと空いている場所が見えた。そこをヒョと突いたら、竹刀の先がまともに当たって、副将はバーンと吹っ飛びました。」
次は銃剣術の話、中学4年生。
「・・・それぞれが防具をつけて、突くところはそこだけという、技術も何もない武術です。これを順々にやれというので出て行ってエイっとやったら、またポンと入ってしまった。次の相手にもポン、そのまた次の人もポン。どういうわけか全部私が勝っちゃうんです。この時も、見ているとそこが空いているのが見えるから突くだけです。」
最後は大人になってからのフェンシングの話。
「・・・ たとえば『ハムレット』なんかでもフェンシングの場面があります。・・・その稽古を横から見ていると、教えていた人が竹内さんもやってみませんかという。じゃあ格好だけでも習ってみようと思って、こうやるんだと教えてもらい、ふと相手をみたらまた空いているところがある。そこをスッとやったらお師匠さんに入っちゃったわけです。この時も目がいいですねってほめられたけれども、目がいいというより、自分の実感で言うと、単純にそこが空くのが見えるのです。空いているからそこへ行くという、実はそれだけの話です。」
これらの「空いている」のが見えるということの不思議さ。竹内敏晴自身は、「本当は目で見た時にはからだが動いている感じなんです。」と述べている。
弓の話で、20射を全部あてるという体験をはじめてしたときのことをしゃべっている。
「その最初を、私は中学五年生だかの時、戦時下で確か警戒警報(あるいは防空訓練であったかも知れないが)で、道場に電燈がつかなくなった時に、やった。日が暮れてきて、十五、六射からはまっ暗になった。私はまっ暗な道場にピタと立ったまま弓を射続ける。的に当たった矢は、友人がとってきて手渡ししてくれる。一歩でも動くとわからなくなり世界が崩れてしまう。私はまっ暗な中で弓を打ち起こし、引きしぼり、そして、心機を充実し、澄まして放つ。当たる。これが、たぶん最後の四本ない五本である。足さえピタと決まれば、からだのバランスはおのれを知って、意識を超えた正確さで自ら動くものなのだ、ということについて私は信じるものを持っている。」(「レッスンする人」P132)
これらは武術の名人の若き日のことのようにも思えるが、幾何が得意だったことも含めて、聴覚に障害があったことで、右半球が通常より発達したのではないかと推測する。フェンシングの話を除いてすべて全く耳が聴こえなかった時期前後のことである。
抗生物質が日本に入ってきて、竹内敏晴の耳が16歳の終わりごろから聞こえるようになる。
「聴力が正常人に比べて五、六十パーセント恢復してきた。しかし、聴力が恢復することと、聞くことができる、ということは別のことである。なぜなら、音は、注意をほかのに奪われているときには、聞こえない。私たちのからだは、つまり音を選んでいるのであって、無差別に音が飛びこんでくるわけではない。だから よく『聞く』ためには、持続した注意の訓練がいるのだ。」
竹内敏晴の、音としてことばをとらえるための意識的な努力がここから始まる。
「・・・・・・ 相手の口をまっすぐに見つめて、唇の動きと、わずかに鼓膜に響いてくるこえを重ね合わせて、音を聞き分けること。これはひどく恥ずかしいことだった。だが、相手の好奇心を正面からあびながら、しかし、視線を合わせるのを確実に避ける方法でもあった。だだこれは持続するひどく苦しい緊張を必要とした。よく読唇術などというが、普通、人々は発音の際にそれほど明確な唇の形を示すものではない。・・・・・・ 日本語の場合、発音発声は、普通思いこまれているほど唇の形に依存しているわけではなく、むしろ口腔内の形と、舌の動きに多く頼っていることが最近ほぼ明らかになっている。当然、唇を見つめるということは、唇の形自体よりもその後ろにある相手の顔やからだの微細な動きを感じとるということになる。ペナルティ・キックを迎えるゴールキーパーのように、ある可能性に向かって身構えるのだ。そして、はりつめた、暗い、可能性の領野に、わずかな発音の切れはしが突き刺さってきたとき、それを核にして、ある意味が一挙に結晶し、姿を現す。相手のことばをとらえ、理解することは、だから、一種の賭けである。ことばとは決して一定の意味を運ぶ安定した通貨ではなく、一つの結晶作用だ。この相手の唇を見つめる作業はその後およそ二十五年間つづいた。そしてことばについての私の姿勢に多分決定的な支配力を持ったと思う。」
「呼びかけ」のレッスンというのがある。数人の人に前後左右にずれて背中向きに座ってもらい、その中の一人を選び、その人にこえをかける。そして、自分だと思ったらその人は手を挙げる。自分ではないと思った人はこえがどのように聞こえてきたのかを指で示す。
この時、なかなか選んだ人に声が「届かない」。前に越して行ったり、後ろに落ちたり、ほかの人の方へ行ったりさまざまである。
この「呼びかけ」のレッスンでは、最初のステップでは、こえを聞き分けるということが大きなテーマになる。声は聞こえるが、「私」に呼びかけられているかどうかということに注意を集中する。そうすると、「私」が選ばれたとしてもこえはなかなか届かない。しかし、こえがどのように聞こえてくるか、どちらに行ったのかということは明瞭に分かるようになる。それは一種の驚きである。
次の段階では、呼びかける人の方を問題にする。これはなかなか難しい。一瞬のうちに呼びかけることばを選び、呼びかける人をえらばないといけない。ほとんどの人が自分が選んだ人が、答えないという事実に直面する。
このレッスンは、相手の人に本当に「ふれて」いるかどうかということを吟味することがテーマである。普段私たちは、相手が自分に話しかけているのかどうかなどということは考えない。自分の方に向いているから、自分の他に誰も人がいないからと、自分に話しているのだと推測しているだけである。自分の方も自分の声が相手に届いているかどうかなどとは気にしていない。(今の私は違うが。)
私がこのレッスンをやる時にいつも思い浮かべるのは、竹内敏晴が相手にこえ・ことばをかけたときに、相手に何らかの反応、からだの変化が生じることで、自分のこえ・ことばが届いたかどうかを判断していた時期の姿だ。呼びかけれられれば、相手には何らかの変化、反応、応答が起こる。
「相手の口をまっすぐに見つめて、唇の動きと、わずかに鼓膜に響いてくるこえを重ね合わせて、音を聞きわける・・・・・日本語の場合、発声発音は、普通思いこまれているほど唇の形に依存しているわけではなく、むしろ、口腔内の形と、舌の動きに多くを頼っていることが最近ではほぼ明らかになっている。だから、当然、唇を見つめるということは、唇の形自体よりもその後ろにある相手の顔やからだの微細な動きを感じるということになる。」
竹内敏晴のこの唇を見つめる努力は25年間続いた。これが、私は後年彼の「からだとことばのレッスン」が生まれる出発点になったのだと思う。
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