竹内敏晴の聴覚言語障害はどのようなものだったのか? 2 「ふたたび唖となる」

 ここで、肝心の「ことばが劈かれる」体験を通り越して、「老いのイニシエーション」における竹内敏晴の言語の問題に焦点を当てる。この書の中でも、「ことばが劈かれる」体験はふれられている。
 この書は、出版される1995年までの10年間ほどの歩みが述べられている。竹内敏晴はある女性との出会いで、家庭を捨て、家を出る。それにともない、竹内演劇研究所は1988年3月末に解散した。

 「老いのイニシエーション」では、家を出た竹内敏晴のさまざまな様子が語られる。
 
 竹内敏晴とのレッスンに参加したものとしては、複雑な感情も起こる。レッスン場面で知っていた竹内敏晴と日常生活での竹内敏晴の落差である。
 笙子との会話における竹内敏晴のありさまである。予感はあった、しかし、これほどまでに、日常生活における会話に対応できないとは。
 ほとんど暴言とも思える笙子の発言に対して、竹内敏晴は対応できないのである。これには驚くが、しかし、一方でこれは、竹内敏晴が笙子にこれらのことばを言わせているという風にも思える。ここでも竹内敏晴は「行動」が先にあって、あとでそれに気づくのである。

 まず、「句読展」と名付けた公開レッスンに、竹内敏晴が自分も出てみようと思って、笙子と二人でやることになったときのエピソードが語られる。

 「当日の朝、私は稽古場に立ってみて、何か足りないような感じに襲われた。・・・・・・
 ・・・ 私は入っていって、頭髪を切りおとしてもらった。
  ・・・ 笙子はまっすぐに立って日傘をひろげ、こわれかけた乳母車の梶棒を押す。私はその中にころげこみ、はだしの足をつきだし腕を曲げ、盲目もまま、なんとも知らぬおめき声をあげた。・・・・・・
 ・・・ おめきと共に私は乳母車から転げおち、盲目の這いつくばりでかの女の足を探るあて、肩にかつぎ上げようとよろめいた―。私において、一度、十年前に『劈かれた』話しことばは、解体し、霞の中に四散して行き、ただ立ち上がろうともがく唖のからだだけがそこにあった。」

 毎日の生活において、笙子は全く竹内敏晴に対して容赦がない。
  「ひとりで閉じこもった気持ちのセツメイなんかタクサン。ただあたしをちゃんと見て、どうしたいかを言えばいいのよ。・・・・・・ あたしは結果だけでいいのよ。ケイカセツメイなんてまっぴら!」

 「一つのことばを、からだの内に兆すものからとらえ出そうとあがく時、その一つのことばには、今自分が生きてうごめいている感じのすべてが―いわば存在の仕方のあらゆる兆候―があらわれていなければ、あるいはこめられていなければ、それが自分をあわすことばとは感じ切れない―私はずっとそうであった。おそらくそれは、私が自覚してことばを発し始めた十七歳の頃にそうであるほかなかったことだったのだろうが。」

 「笙子はなぜあのように、水の流れ出るようにことばを噴き出させ、怒りに狂い立っていると見える時でも、次々と順序立ててことばを並べて行くことができるのだろうか?・・・
 かの女が私に問いつめたしかめようとしているおそらくただ一つのこととはるかに遠い地点で私は立ち止まってしまう。ことばの筋道・・・は、私にとっては、いつも、考え考え構成しつなげていくものだった。・・・・・・
・・・ 私は、ただ「待つ」しかない。・・・ ことばが姿を見せるのを。まずほとんど単語の形、時に短い句の姿で。どうやらこれは語彙の掘り起こしが初めに来て、文脈がそれに続く、ということになるらしい。岡本夏木は学童期のことばの発達を二次的言語と名づけて、語彙と文脈という観点から考察して、子どもに内蔵されている文脈辞典から語彙辞典への移行という見方をしている(『ことばの発達』岩波新書)。岡本は言語の獲得には文脈が先行するようだと述べているわけだが、それに従っていえば、私の話しことばの習得は、文脈による獲得の時期を欠いて、語彙の組み合わせによる文脈の組み立ての訓練の経過を辿った、ということになるのだろうか。
 圧倒的なことばの奔流の攻撃にさらされながら、わずかな語彙の組み立てる呟きなどはかぼそい土壌のように、たちまち、押し流されて、私は黙り込む。」

 

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