今野哲男さんの「小さな憑依体験」について、今考えれることを書いてみましょう。
表情面をつける時に起こるプロセスから書いてみます。
竹内さんのレッスンの中では、仮面をつけるレッスンがあります。これはフランスのジャック・ルコックの整理したもので、竹内さんはそれを日本流に変えています。中性面(ニュートラル面)・表情面(キャラクター面)に分けられます。そのうちキャラクター面をつけるときには、その仮面の特徴(キャラクター・表情)に注目してつけます。
鏡の前の椅子に座って、選んだ仮面を持ちます。その時は蛍光灯の灯です。仮面に真正面から向かい合います。
その仮面の全体的な印象をそのまま受け取ります。その際に仮面を見て、「悲しそうだな」とか「笑っているな」とか「怖そうだな」とか、様々な印象が浮かぶでしょう。
しかし、その際に「浮かんできたことば」には注目しないで、そのまま流し去ります。抑圧するのではなく、出てくるままにして、流れるままに放っておきます。そして、その仮面から受けることばになる以前の、あるいはことばを越えた全体的・原始的印象をそのままつけます。
面を顔に着けると、蛍光灯の灯が消え、ローソクの灯になります。大きな鏡に仮面をつけたものが映っています。そして、どんな動きが出てくるのかを探ります。
最初は椅子に座って動きを探りますが、動きが大きくなると椅子から離れて立って動きを探ります。どんな動きが出てくるのかに任せるのです。
この時にはからだが勝手に動ぎ始めます。口が動いたり、手が動いたり、姿勢が変わったり、声が出てきたリ、情動が動いてきます。
今野さんのいう「日常の自己が解体するような感覚に襲われたことがあります。オレはオレであるという統合感覚が舞台上でいったんご破算になり、むき出しになった身体感覚、バラバラに、しかも一斉に襲ってくるという感じです。」という感じは、キャラクター面をつける時の最初のプロセスと似たものを感じます。
キャラクター面をつけるときには、大体自分の姿勢や動き方がはっきりしたら鏡の前か離れて、見ている人たちの前に出ていきます。この時に舞台に明かりがつきます。
この時の最初のプロセスでは、からだが勝手に動き、最初はどんな動きになるのか全く分かりません。一旦からだがバラバラになり、「混沌」状態になります。
うまく行くとバラバラになったからだの動きが、まとまり一つのはっきりした「形」、「人物・存在」が現れてきます。全く仮面を見ていた時には想像もつかないような存在が現れてきます。
漠然と男だと思っていた仮面をつけてみると、中年のマダムに変身することもありました。そうしたときには全身が変わっていて、動きやしぐさなどすべてが変わりラクラクと自由に動けます。
いつもこんな風にうまく行くとは限りません。何だか、はっきりしない動きだけで終わってしまうこともあります。
芝居をやる時にも、舞台に出ていく前に、段々と自分のからだが変わってきます。役のイメージが全身を浸し、からだのリズムが生まれたときに舞台に出ていくと、自由にラクラクと動け、客席から笑いが生じます。
竹内さんもどこかで渾沌とした状態から「フォルム」が生まれることを述べていたと思います。
仮面のもともとの成り立ちは、共同体の「聖なる」ものが降りてくて、憑依するといったものであったのだと思います。
現代の私たちは、この共同体がこわれていますから、「聖なる」ものが降下してくるとは言えません。いくつかの文化ではまだ残っているところがあるでしょうが。
仮面をつけると、自分が動いているのではない、動きが自分の中から出てくることを明瞭に見ることが出来ます。それは途方もないエネルギーを秘めています。
出てくるものにまかせ、それの方向性を何とか保ち、形を見出し、創造的なものを作ることが出来るでしょう。
いづれ、地球共同体が出来れば、その神話から新たな仮面-憑依が現れるでしょう。
今野さんの質問に応えれているかどうか分かりませんが、とりあえずここまで。
表情面をつける時に起こるプロセスから書いてみます。
竹内さんのレッスンの中では、仮面をつけるレッスンがあります。これはフランスのジャック・ルコックの整理したもので、竹内さんはそれを日本流に変えています。中性面(ニュートラル面)・表情面(キャラクター面)に分けられます。そのうちキャラクター面をつけるときには、その仮面の特徴(キャラクター・表情)に注目してつけます。
鏡の前の椅子に座って、選んだ仮面を持ちます。その時は蛍光灯の灯です。仮面に真正面から向かい合います。
その仮面の全体的な印象をそのまま受け取ります。その際に仮面を見て、「悲しそうだな」とか「笑っているな」とか「怖そうだな」とか、様々な印象が浮かぶでしょう。
しかし、その際に「浮かんできたことば」には注目しないで、そのまま流し去ります。抑圧するのではなく、出てくるままにして、流れるままに放っておきます。そして、その仮面から受けることばになる以前の、あるいはことばを越えた全体的・原始的印象をそのままつけます。
面を顔に着けると、蛍光灯の灯が消え、ローソクの灯になります。大きな鏡に仮面をつけたものが映っています。そして、どんな動きが出てくるのかを探ります。
最初は椅子に座って動きを探りますが、動きが大きくなると椅子から離れて立って動きを探ります。どんな動きが出てくるのかに任せるのです。
この時にはからだが勝手に動ぎ始めます。口が動いたり、手が動いたり、姿勢が変わったり、声が出てきたリ、情動が動いてきます。
今野さんのいう「日常の自己が解体するような感覚に襲われたことがあります。オレはオレであるという統合感覚が舞台上でいったんご破算になり、むき出しになった身体感覚、バラバラに、しかも一斉に襲ってくるという感じです。」という感じは、キャラクター面をつける時の最初のプロセスと似たものを感じます。
キャラクター面をつけるときには、大体自分の姿勢や動き方がはっきりしたら鏡の前か離れて、見ている人たちの前に出ていきます。この時に舞台に明かりがつきます。
この時の最初のプロセスでは、からだが勝手に動き、最初はどんな動きになるのか全く分かりません。一旦からだがバラバラになり、「混沌」状態になります。
うまく行くとバラバラになったからだの動きが、まとまり一つのはっきりした「形」、「人物・存在」が現れてきます。全く仮面を見ていた時には想像もつかないような存在が現れてきます。
漠然と男だと思っていた仮面をつけてみると、中年のマダムに変身することもありました。そうしたときには全身が変わっていて、動きやしぐさなどすべてが変わりラクラクと自由に動けます。
いつもこんな風にうまく行くとは限りません。何だか、はっきりしない動きだけで終わってしまうこともあります。
芝居をやる時にも、舞台に出ていく前に、段々と自分のからだが変わってきます。役のイメージが全身を浸し、からだのリズムが生まれたときに舞台に出ていくと、自由にラクラクと動け、客席から笑いが生じます。
竹内さんもどこかで渾沌とした状態から「フォルム」が生まれることを述べていたと思います。
仮面のもともとの成り立ちは、共同体の「聖なる」ものが降りてくて、憑依するといったものであったのだと思います。
現代の私たちは、この共同体がこわれていますから、「聖なる」ものが降下してくるとは言えません。いくつかの文化ではまだ残っているところがあるでしょうが。
仮面をつけると、自分が動いているのではない、動きが自分の中から出てくることを明瞭に見ることが出来ます。それは途方もないエネルギーを秘めています。
出てくるものにまかせ、それの方向性を何とか保ち、形を見出し、創造的なものを作ることが出来るでしょう。
いづれ、地球共同体が出来れば、その神話から新たな仮面-憑依が現れるでしょう。
今野さんの質問に応えれているかどうか分かりませんが、とりあえずここまで。
三好さん、有難うございます。説明してもらったこと、腑に落ちたように思います。読んでもらった文章は、舞台での経験を語ったもので、「仮面」を引き寄せて考えたことはなかったのですが、たぶん舞台にいて集中できたときには、仮面をかぶったときと、似たような状態にいるのでしょうね。あのときのことを考えると、「仮面をつけると、自分が動いているのではない、動きが自分の中から出てくる」という言い方がよくわかるような気がしますから。
返信削除少し時間をもらって、もうすこし考えてみます。
では、また。
すみません。タイトルにある「近野哲男」は、「今野哲男」の間違いです。
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