内在するリアリティー

 「竹内敏晴研究」ブログを立ち上げたのですが、記事を書くのに四苦八苦しています。簡単に言えば、竹内レッスンは言葉になる以前の「からだ」をテーマにしているからです。私たちはおおよそ、言葉にならないものは存在しないことと同様のものとして扱っているようですが、そんなことありません。

 むしろ言葉にならない世界の方に、私たちはより多く支えられ促されて日々を過ごしていると思います。そのような言葉にならない世界でのことを、私は言葉にしようというのだから、無茶な話ですね。とうぜんレッスンの中での、私の個人的な体験から書き出していくしかないようです。

 母音「あ」の声を出すレッスンがあります。からだの緊張をほどいて、「からだ」の中の道筋(通り道)を開放する。声を出すと、「からだ」から明るい「あ」の声が、堰(せき)を切ったようにあふれ出してきます。この時に「こえ」を出そうとする努力や頑張りは一切必要ありません。あまりのあっけなさに、声を出した人は茫然としています。周りで見ている人も、眼をまるくして声を失っている(笑)

 ふつう一般に、声というのは緊張して努力をしなければ出ないと思い込んでいるのでしょう。人前で声を出そうとする瞬間に、のどに力を入れて声帯を絞めたり、大きく息を吸って胸を持ち上げたり、顎を上げたり、気を付けの姿勢をしたりと、声を出すためには、先ず緊張ありきが常識になっているようです。

 私から見れば、このような緊張(身構えと言います)が声の出なくなる原因です。声というのは声帯の振動が、「からだ」全体に共鳴して響きだします。声帯の振動だけでは耳に聞こえる音にはなりません。ギターの弦の振動がギターの胴体に伝わって、音色を響かせるのと一緒です。弦(声帯)だけを取り出して爪弾いて(震わせて)も音は出ません。

 声が良く出るためには、弦=声帯をいじるのではなくて、からだ全体が楽器のように良く共鳴するよう、からだのこわばり=緊張を取り払ってやれば良いのです。

 縦笛を、人間のからだと考えるとわかりやすいと思います。笛は中空の管です。それが折れ曲がったり塞がったりしていては、笛の音は響きだすことができません。人間の場合も、足裏から天頂へと、中空の管のように、からだの中の空間が吹き抜けていて、姿勢は柔らかく張りをもって支えられている必要があるのです。その時「こえ」は、心地よく楽しく響きだします。

 「からだの中の管?」「空間が吹き抜ける?」と、不思議に思われるかもしれませんが、このような感じ方は、レッスンの中で実際に成り立ちます。野口体操ではこのようなからだの感じ方を大切にしています。竹内レッスンではこのようなからだの感じ方、在り方を基本にして、声・ことばのレッスンをしています。これは体験することでしか、分かる、つまり言葉にすることが出来ないことなのです。

 さて、管を折り曲げたり塞いだりして、声の響きを閉ざす原因は、からだの強張り(=緊張)です。声を出そうと努力し緊張することも「からだ」を強張らせ、声が響きだしていくことを妨げます。このような緊張(発声への身構え)を取り去っていけば「こえ」があふれ出していきます。

 ここでまた不思議なことですが、「からだ」という笛(管)を、吹き鳴らすのは「誰か」という問題が出てきます。意識の指令よる緊張努力によって声が出ると思い込んでいるうちは、声を出すのは自分だと決めつけられる。ところが良く声が出ているときには、自分が声を出しているという実感がないのです。「こえ」自体が、自分の「からだ」の中から、他者あるいは周囲に向かって溢れ出していることは意識できるのですが、自分が声を出しているという実感は消え去ってしまうのです。

 まるで「こえ」という実体(生き物)が、からだの中に住み込んでいて、門(緊張・強張り・自意識)を開けば、「こえ」自らが勇んで外界に向かって飛び出して行くようなありさまです。家主の私(自意識)は「こえ」が出ていくのをただ見送っている、そんな感じです。からだを吹き鳴らすのは「こえ」自体なのです。

 野口・竹内の実践の延長上にある発声レッスンとは、このような「こえ」との出会いを基本にしています。発声の主体は「こえ」自体にあり、私(自意識)ではありません。私自身の意識的な指令による緊張は「こえ」の現われを妨げるのみです。平たい言い方をすれば、「よく声が出るためには、自意識のチョッカイを如何にして辞めさせるか」それがレッスンの目指すところとなります。

 「こえ」が主人で、従者は私の自意識です。ふだんの関係の逆転です。「こえ」が自由に溢れ出すために、自意識は「こえ」に道を譲るのです。その譲り方を学ぶのが「野口体操」と「からだとことばのレッスン」です。
 では「こえ」は、「どこから」私のもとにやってくるのか?あまり突っ込んで考えるのも無理があるので、「こえ」とは「いのち」の現われであると、私は言っています。それが分かったからと言って、声が出るようになるわけではありませんから。繰り返し声を出すことで、主導する「こえ」自体の働きによって、知らぬ間に私は導かれ劈かれて行くのです。

 「こえ」に道を譲る。この道は「いき」の流れる道でもあります。「こえ」を出す(ひらく)ことで「いき」の流れによって、地から天へと姿勢が調えられていきます。地と天との間を往還する「いのち」(いきのちから)の流れが、私を超えて他者や環境と交響します。その延長に、物語の世界を「こえ・ことば」を通して語ることが、私を待っています。

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 自分の声のことで、苦労をしている人が案外多いように思います。ボイストレーニングや発声法の本が書店の本棚を賑わしているようです。それらは「良い声」またはその「出し方」を学ぶことが基本になっています。私はこの考え方に疑問を持っています。誰もがその人なりの「こえ」を持っている。それは、工夫して作りだされるものではありません。もともと持っているのですから、それを開放してあげれば良いのです。

 何らかのテクニックをもって、自我(自意識)の命令で自分を作り変える。あるいは思い通りの理想の自分になる。自己実現と良くいいますが、このような考え方を私は信じていません。

 本来より持ち合わせている個性。それは自分の中に住みこみ、表現される機会を待っています。そしてその個性は無限に変化を繰り返すことで、時間をかけて自己を明らかにしていく、「いのち」の現われとしての自分です。個性とは自分で作り出すものではありません。「いのち」の風に促され、磨かれ立ち上がってくる私の姿です。

 「こえ」に道を譲る、と書きました。西洋近代における合理主義的な生き方に、このような発想はないでしょう。すべてに「私」(=自分・自我・自意識)が優先されます。その「私」を「いのち」の働きに譲る、あるいは明け渡すというのは、自分を失う恐怖をともなうことでしょう。

 ところが日本や東洋の伝統は、「私」を失うことに価値や意味を見出しています。凝り固まった自我を手放さない限り、世界の本当の姿が見えてこない。当然、本来個性的である自分をも見ることが叶わないのです。

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 竹内レッスンも野口体操も、教えることや学ぶことの根に、このような東洋的なものの見方考え方を持っていました。意識の表層を蔽う固定したものの見方考え方を剥ぎ取り、内在するリアリティー(本質・真実性・いのち)へと出会いを深めていくやりかたです。それは何かを加え積み重ねて、あるいは微に入り細に入り物事を突き詰めていくやり方ではありません。何かへのしがみつきを、次から次へと引きはがしていく方向です。言葉になる以前のところに集中し、繰り返し新たに道を見出していく作業ですから、言葉で説明するのが難しいのです。


【以下Facebookのお知らせより】
この度「竹内敏晴研究」という共同のブログを立ち上げました。竹内敏晴に影響を受けた、様々な人たちの記事をブログの中に放り込み、そこから何が生まれてくるかを観てみたいと思ったからです。私も世話人として記事を投稿しなければと思いながら、実際のところは記事を書くのに四苦八苦をしています。自身のブログを書くのでさえ、暗中模索の連続なのに、さらに竹内にまつわる記事を書く!!!しばらくは、どちらのブログにも同じ記事が並びそうです。お許しください(笑)
「竹内敏晴研究」世話人は3名、元竹内演劇研究所スタッフの三好哲司、卒論を書くのに様々な竹内関係者をインタビューして歩いた八木智大、そして私(せとじま・ばん)です。
「竹内敏晴研究」ブログは、投稿のテーマを決めていません。竹内に会った人、本を読んだ人、ご自身の興味で、記事を投稿していただければと思っています。
ブログは http://takeuchi-toshiharu-kenkyu.blogspot.jp/ で、ご覧いただけます。投稿をしていただける方がいらっしゃいましたら、takeuchi.toshiharu.kenkyu@gmail.com 瀬戸嶋宛にご連絡ください。(瀬戸嶋 充・ばん)

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