私は何故こんなにも竹内敏晴にこだわり続けるのだろう? 4 レッスンをやることと「地球の環境持続性」

 「田中正造―矢中村」の上演を終えて、私は竹内敏晴にレッスンをやりたいと話した。それで、竹内演劇研究所のスタッフになり、レッスンをやるようになった。それまでは、レッスンは竹内敏晴にしかできないと思っていた。
 人に関わることができないと思って、言語障害・病理学の研究機関にいた人間が、わずか3年ちょっとのレッスンで、「からだとことばのレッスン」をやるようになった。とても大きな変化である。

 私は吃ることを何とかしないといけなかった。吃っていては、レッスンの流れが途切れ、その時その場で人に働きかけることができない。
 それまでに芝居の上演の時には、吃らないという体験を何度か繰り返していた。芝居の時には何日も毎日稽古し、からだをリラックスさせる。リラックス=集中であり、リラックスした分集中できる。
 芝居をやる時のようなリラックスした状態で、レッスンに入れるように、からだの準備をした。稽古場は昼間は空いているので、早く行き4,5時間も声を出したり、からだを動かして準備した。
 そうすると吃らないでレッスンを進めることができた。準備にかかる時間は徐々に短くなっていった。
 この頃から日常生活においても殆ど吃らなくなった。

 竹内敏晴は宮城教育大学の専任教官になり、竹内演劇研究所のレッスンに、それまでに比べるとあまりこれなくなった。「からだとことばの教室」は週3回のレッスンで、1回は池田潤子の野口体操(後に池田自然体操)、あとの2回は、私と高田豪がほとんどやっていた。竹内敏晴は要所要所にきて、全体の責任を持っていた。
 この頃20坪ほどの地下室に1クラス50人を越える人たちが集まることも多かった。
 私は楽しく夢中でレッスンに取り組んでいて、ある発表会の稽古の時には、気が付くと午前4時まで続けていた。朝から仕事の人も多かったのだが。

 翌年の「セチュアンの善人」の湊川公演の後、私は竹内敏晴から心理的に離れることになる。それで、自分なりにやらないといけないと思い、竹内演劇研究所で、クラスをやったことがある人たちを集めて1年間の私が責任を持つクラスを作った。
 中間発表を「仮面」をつけることで行い、最後にはクラウン(道化)の発表会を行った。

 以前に書いたレッスンによる私の「変容」は、「田中正造―矢中村」の上演の後からこの時期あたりのことである。

 田中正造のことばは、透徹していて時代を突き抜けている。

 「官憲(政府)が加害者(銅山)と合体して、被害民をひどい目に遭わせてこの大災害地を製造した。」
 「鉱毒の害というものは、他の損害と違い、元金が亡くなってしまう。地面が亡くなると同時に人類も亡くなってしまう。永遠にかかわる損害。これをこのままおけば、人民は死に、国家は亡くなってしまう、ということを、くりかえし怒鳴るにすぎない話でございます

 私は上演でこれらのことばをどれほど言い切れるということに自分を賭けた。私は役者ではないので、これらのことばは深く私のからだに残った。
 何年か後に北米のシェノアで行われたディープエコロジーの集まりで、この田中正造の議会における演説の一部分をみんなの前でやってみせた。木村理真さんが通訳してくれた。ディープエコロジストのジョアンナ・メイシ―が「田中正造が出てきたみたいだ。」と言ってくれた。

 皮膚の内側だけが、「私」であるとは感じれなくなった私には、「環境破壊」は私にとってとてもリアルなものになった。「地球の環境持続性」がなければ、すべてが無意味になる。このことが私から離れなくなった。

 私は「先進国」に住んでいる人間として、何が一番必要であるかを考えた。それは、地球に住む一人の人間として、自分で感じたことで考え行動することができる「核」を見つけることであると思った。先ほど述べた1年間のクラスはこのような考えのもとで行った。

 






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