私は何故こんなにも竹内敏晴にこだわり続けるのだろう? 3  湊川高校で芝居をやる

 レッスンが始まり、私に「体験」が起こるようになった。それまでも、私は生きていたはずだ。しかし、何かがはっきりしていなかった。
 竹内敏晴を信頼して、その場で「ありのままでいる」と何かがはっきりしてきた。集中した場で何か行動するととてもはっきり「体験」として残る。
 私はまるで人と深くかかわることをしていなかった。研究機関に入ったのも、自分の吃音を何ともできないのに、言語治療士になることはできないというような思いがあった。吃音に関わる職場であれば、治療士になったかもしれないが。

 レッスンの最初のころ、大勢の中の一人としてレッスンに参加していると居心地の悪さ、不安を感じた。みんなの前で何かやる時には、やることに集中できた。それは、竹内敏晴が見ていてくれるという安心感からだ。全く私は竹内敏晴に頼り切っていた。

 竹内演劇研究所の「特別講座」というクラスに秋から入った。「からだとことばの教室」はまだなかった。週3回、半年間で最後の芝居の発表会がある。
 最後に芝居をやることは知っていたが、私には関係のないものだと思っていた。クラスも終わりに近づき、どの役をやりたいかというアンケートが回ってきた。私は吃りなので、関係ないと思っていたので出さなかった。しかし、その私に役がついた。小さい芝居ながら主役である。
 私は本番の直前まで吃り吃りながら稽古していた。竹内敏晴が稽古に来るときには、吃っても何ともないが、ほかの講師が来た時には、私が吃ると、何か私が芝居の邪魔をしているのではないかと感じることもあった。
 本番が近づいてくると、不思議なことに心の奥底で何とかなるさというような気持が起こってきた。実際に稽古では吃っていたのだが。

 1時間ほどの芝居だが、本番で私は全く吃らなかった。ひたすら、「そとへそとへ」と注意を向け、決して頭の中に戻って先を考えないようにした。その時その場で生きていれば吃音は起こらない。先を予想して、不安を生じさせ、構音器官を緊張させることが吃音を引き起こす。

 この時竹内敏晴は、竹内演劇研究所の演劇集団「竹内スタジオ」の役者の一人に私の芝居を見ることを勧めていた。芝居の後、彼に、「振幅は小さいが、ことばが生きている」と言われた。嬉しかったが、竹内敏晴は、本舞台が見えていたのか?

 3年後の同じ秋に神戸の湊川高校で、「田中正造―矢中村」を上演した。私は田中正造役をやった。
 湊川高校は、日本で一番大きな被差別部落があるところで、そこにある定時制高校である。教師たちが何とか生徒を集め、様々な人が応援に入っていた。宮城教育大学の学長であった林竹二が、小学校における授業行脚の末に倒れて、湊川高校で授業することで回復していた。竹内敏晴は最初レッスンをしたが、授業として芝居を持っていくことにした。
 1977年から湊川行が始まった。最初は役者たちの集団である竹内スタジオの人たちで、清水邦夫の「幻に心もそぞろ狂おしのわれら将門」を持って行った。
 私たちは湊川へ行く前に東京の公演を見た。それは、役者たちの全身が躍動するようなとても凄い芝居だった。

 この時のことを、竹内敏晴は次のように述べている。
 「私は、二十五年間芝居をやってきた。しかし、これほどなまなましいというか荒々しく、またこれほどあたたかくというか繊細に、そしてこれほど集中してまっこうから受けとめてくれたお客というものに会ったことがなかった。今まで何度が自分にとって決定的に思い舞台がありますけれども、客との出会いにおいて、これほど深い体験はなかったと思うのです。」

 竹内敏晴はこの時から10年間湊川高校に芝居を持っていくことを続けた。

 最初の2年間は役者たちのグループが行った。3年目に私たち「からだ」のグループが突然行くことになった。私たち「からだ」のグループは、本来ひとりひとりが自分の内面と向き合うために集まった集団である。この頃、それまでやっていた仕事を辞めたり、学生だった人はそのまま就職しないで、「レッスン」を中心に西新宿に「ライヒ館モレノ」という場所を借りて活動していた。
 途中から、竹内敏晴は芝居をやることをレッスンとして持ち出していた。そして、ゴーリキ作「どん底」をライヒ館モレノでやっていた。

 3年目になり、竹内敏晴は湊川高校から田中正造の芝居をやることを要請された。それにはその頃、林竹二が田中正造の授業を湊川でやったいたという事情もある。
 竹内敏晴は突然の提案に困惑していたが、神戸からの帰りの新幹線の中で、「・・・、ずっと三時間の間えんえんと考え続けていたわけだ。それで新横浜か何か過ぎる頃に、ファッと考えが考えか変わったんです。どう変わったかっていうと、言うと笑われるだろうけれども、〈からだ’79〉の三好君の顔がパッと浮かんだわけだ。あいつに正造をやらしたらどないだと突然思ったんだな。これは随分突飛な考え方で、田中正造って人は、ペラペラ猛烈な勢いでしゃべりまくる雄弁家なんだけれども、三好君っていう人は吃りですから、、まあ考えればメチャメチャな話なんだ。」(「ドラマとしての授業」)

 私は竹内演劇研究所のクラスで三度芝居の発表会に出ていた。舞台の上では吃らない。しかし、日常生活では、症状が軽くなったが吃りは復活してきて来るということを繰り返していた。
 田中正造の芝居では、セリフが多く、議会の演説の場面などもあり、稽古中も吃ることが出てきた。私は吃ることを避けないで、そういう場合は思いッきり吃ろうとした。

 私の記録を見ると、「セリフを大体覚えて初めて通しらしいものをやった時に、竹内さんからみんなに話があった。今日の通しを見て自分の考えが間違っていないということが判った。からだ’79の、特に三好の、観客にまっすぐ話しかける力にかけるという内容の話があった。
 この話を聞いて、竹内さんの考えも判らなくはないが、非常に不可能なことを考えるなと思い、負担に感じた。そうしたら案の定、その二日後に発熱し、頭にオデキができた。下痢もしていた。」

 私たちは必死に舞台をやっただけだった。
 「で、とにかく、今度の芝居は、三年間持ってきた芝居の中で、全く違う、何かもうびしびしくるということを、舞台稽古の時から、手伝ってくれた尼崎工高の教師たちからも言われたし、湊川の校長さんからも言われたし、それから終わってからの生徒たちからも言われたわけです。で、つまり、何かが通ったということは思うんです。」と竹内敏晴は述べている。(「ドラマとしての授業」




 

 




 

 


 











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