竹内敏晴のレッスンの「分かりにくさ」は、彼の聴覚言語障害のありようからきている面がある。さて、その聴覚言語障害がどのようなもの、どのような程度だったのか、言語の形成や自己意識・対人意識にどのような影響を与えたのか、これらはレッスンの核心にある。
初めて直接会った頃には、彼に言語の問題があるとは全く感じなかった。何年か経って、レッスン以外の場面では、たとえば帰り道などで、竹内さんはあまり話をしないなというような感じを持ったことはあった。
「ことばが劈かれるとき」から見ていこう。
「私が耳の病で苦しむようになったのは、たぶん、生後一年にならぬころからだったようである。飲んでいたお乳が、せきこんだかなんかして、耳に廻って炎症をおこした。・・・・・・完治しないままの耳が、その後ぶり返し、また完治せぬまま治療がストップし、というくり返しで悪化していった。」
「友だちの子どもたち容赦なく、私をツンチャンと呼んだ。」
「状況が大きく変わったのは、小学生五年生の時に小学校にプールができたことだ。・・・・・・はじめて見るプールというものができた。それに入って泳ぎを教わるというとき、私はかかりつけの医者に見てもらわなかった。校医の検診は通過したのだから、と自分をなっとくさせて、怖いところにふれずにすごしたのだ。その年はどうしたことか、耳はそれほど悪化しなかった。・・・
だが、次の夏、事態は一気に悪くなった。発熱、長期の病臥。小学校を卒業して中学に入ったころには聴力は決定的に低くなっていた。」
この小学生までの難聴はどの程度のものだったのだろう?
「レッスンする人」から見ていこう。
「『いやだ』といったのは、実の母親の誘いですから、小さな子どもにとってはなかなか難しいことだったと思われるかもしれません。ところが、むしろ、そういう葛藤がなかったことのほうをよく憶えているんです。死んでくれと言われても、死ぬということ自体が分からないし、『いやだ』ということばしかなかった。『いやだ』を選んだというより、何もわからないから『いやだ』という言い方が出てきたという感じがします。だから、そのときは、たぶんまだふつうにしゃべれることができていたんでしょう。五つですから。
それまでは、聴こえたり聴こえなかったりしていたのです。」
「・・・・・・その時のこともちょっと憶えていて、三角形みたいなものや数を数えたり、何か字を書かされたりしました。だから、その時には苦労しながらでも聴こえていたということになると思います。
だから、、五歳、六歳の頃は、いくらかでも聴こえていたということは間違いなく言えますが、その後は耳が悪化してきて、聴こえたり聴こえなかったりを繰り返すようになり、熱を出して年中安静で寝ていなければしょうがないというかたちになったので、からだは弱いし、最年少だから小さくて、何かと困ったことを憶えています。まだいくらかはしゃべることはできたわけですれども。」
「それで、自治会当番、今でいう議長を務めることになったわけですが、確か二回目か三回目の討論の時に、ボスを中心にした連中が議事妨害をはじめたことがありました。野次を飛ばしたり、意味もなく冷やかしてみたり、ちょっと言い返すとここぞとばかり騒ぎ出したり、ともかくすごい妨害だった。・・・・・・
それで、腹を立てて、ボスに向かってそんなに邪魔をするなら帰ってくださいと怒鳴ったんです。そうしたら、こっちは喧嘩になると思って身構えているのに、その子が、こっちを見たと思ったらポロポロ涙を落とし、えーんと泣き出して本当に帰ってしまった。」
中学生になるまでは、聴こえたり聴こえなかったりすることはあったにせよ、ことばをしゃべっていたようだ。
母語(第一言語)の獲得には、年齢の臨界期があるという説もあるが、はっきり確定したものではない。
神経生理学者エリック・レネバークは言語獲得の臨界期は12歳~13歳はまでであるとする説を述べている。(Eric.H.Lennberg 1967)
「ソマティック心理学」の中で久保隆司は脳の「プルーニング」という現象について述べている。
「脳では生涯に3回プルーニングが行われると言われます。1回目は、胎児のときの爆発的に増加したニューロンのプルーニングです。2回目は生後8か月をピークに18カ月頃までのシナプス結合のブルーニングです。3回目は、10歳ごろの大皮質の(左)前頭葉の部分(ブローカ野)のプルーニングです。」
プルーニングとは、「刈り込み・剪定」と呼ばれる現象で、過剰に生成されたシナプス結合
の中で、不要な神経細胞のシナプスが大量に削除剪定され、死滅していく現象である。
久保はさらに最近のものとして、脳神経学者ギードの研究を紹介している(Giedd et. all,1999,2004)。
「・・・ 男性では12歳ごろにシナプス結合が急激に増加しだし、大脳新皮質の厚みが増し、そして20歳ごろまでにはプルーニングで調整されていくのです。・・・・・・
脳の重要な発達はそこで止まるのではなく、思春期のピークを迎える16歳頃までを考慮に入れる必要があるということを示しています。」
竹内敏晴の場合はどうだったのだろう?
「中学一年の秋から、四年の冬まで、私はほとんど完全なツンボだった。・・・・・・
私が中学四年のときに新薬が開発された。・・・・・・
五年生になると、病状ははっきり安定した。・・・・・・
聴力は正常人に比べて五、六十パーセントは恢復してきた。しかし、聴力が恢復することと、聞くことができるということは別のことである。なぜなら、音は、注意をほかに奪われているときには,聞こえない。私たちのからだは、聞く、つまり音を選んでいるのであって、無差別に音が飛び込んでくるわけではない。だからよく『聞く』ためには、持続した注意の訓練がいるのだ。
まして、話をすることは、聴力が生まれてからやっと始まる。-ちょうど赤ん坊のヨチヨチ歩きのような―長い努力の先のことになるのだ。困難は二つある。一は、こえを出して発音できること、二は、自分の発したこえを、外からの音として聞き分けられること。」
「私の作業は、まず、自分の見たもの、感じたことを単語に見出すこと、次にどれをどう組み立てたならば他人に理解できるかを発見すること、そして第三に、それをどう発音したら他人に届くのかを見出すことだった。・・・・・・、
第一の作業は、心の中で始まった。自分の心の動きを見つけながら、それにふさわしいことばを見つけ出してゆく。そのとき、自然に、心の中で、発音せずに口にしている。・・・・・・
第二の作業は、ずっと困難だった。・・・ 一つの、私に固有の『言語構造』がどうやって生まれうるか、形成されるかという問題で、それは、ほんとうは第三の作業の問題と深くかかわっているはずだが。」
「十六歳の終わりごろ、ようやく耳が聞こえ始めたときから、私はおずおずと、しかし、いやおうなしに、会話、あるいは対話の世界に入りこんでいかざるをえなかった。まず、音としてことばをとらえなければならない。私はいつの間にか次のような努力をしていた。
第一は、相手の口をまっすぐに見つめて、唇の動きと、わずかに鼓膜に響いてくる声とを重ね合わせて音を聞き分けること。・・・・・・ よく読唇術などというが、普通、人々は発音の際にそれほどまで明確な唇の形をしめすものではない。・・・・・・ 日本語の場合、発音発声は、普通に思いこまれているほど唇の形に依存しているわけではなく、むしろ口腔内の形と、舌の動きに多くを頼っていることが最近の研究では明らかになっている。唇の形じたいよりもそのうしろにある相手の顔やからだの微細な動きを感じとるということになる。・・・・・・この相手の唇を見つめる姿勢はその後およそ二十五年間続いた。そして、ことばについての私の姿勢に多分決定的な支配力を持ったと思う。」
竹内敏晴はこの状態から長い時間をかけて自分でことばを見出していく。デカルトの「精神指導の法則」、「方法序説」に出合い、独力での、ことばを見出していく長い過程に踏みだしていく。これらの道筋は「ことばが劈かれるとき」の中心課題なので、そちらを読んでほしい。
13歳まで隔離された少女ジーニは、その後、二語文までしか話せなかった。(スーザン・カーチス「ことばを知らなかった少女ジーニ」1977)
竹内敏晴の場合はそれとはあきらかに違う。ジーニの例をここで持ち出すのは、見当違いなことかもしれない。しかし、後に竹内敏晴は、自分のことばと「人間である」「人間になる」ことの関係に、深く苦しむことになる。そして、長い時間をかけてそれを超えていく。
竹内敏晴は基本的な言語構造を獲得していたと考えられるが、中学一年から四年までほとんど耳が聞こえななかったことは、この先途方もない困難を生じさせることになる。
それと共に、後に「からだ」の発見に至る萌芽が、この相手の唇を見つめる二十五年間の試みから生まれたように思われる。
初めて直接会った頃には、彼に言語の問題があるとは全く感じなかった。何年か経って、レッスン以外の場面では、たとえば帰り道などで、竹内さんはあまり話をしないなというような感じを持ったことはあった。
「ことばが劈かれるとき」から見ていこう。
「私が耳の病で苦しむようになったのは、たぶん、生後一年にならぬころからだったようである。飲んでいたお乳が、せきこんだかなんかして、耳に廻って炎症をおこした。・・・・・・完治しないままの耳が、その後ぶり返し、また完治せぬまま治療がストップし、というくり返しで悪化していった。」
「友だちの子どもたち容赦なく、私をツンチャンと呼んだ。」
「状況が大きく変わったのは、小学生五年生の時に小学校にプールができたことだ。・・・・・・はじめて見るプールというものができた。それに入って泳ぎを教わるというとき、私はかかりつけの医者に見てもらわなかった。校医の検診は通過したのだから、と自分をなっとくさせて、怖いところにふれずにすごしたのだ。その年はどうしたことか、耳はそれほど悪化しなかった。・・・
だが、次の夏、事態は一気に悪くなった。発熱、長期の病臥。小学校を卒業して中学に入ったころには聴力は決定的に低くなっていた。」
この小学生までの難聴はどの程度のものだったのだろう?
「レッスンする人」から見ていこう。
「『いやだ』といったのは、実の母親の誘いですから、小さな子どもにとってはなかなか難しいことだったと思われるかもしれません。ところが、むしろ、そういう葛藤がなかったことのほうをよく憶えているんです。死んでくれと言われても、死ぬということ自体が分からないし、『いやだ』ということばしかなかった。『いやだ』を選んだというより、何もわからないから『いやだ』という言い方が出てきたという感じがします。だから、そのときは、たぶんまだふつうにしゃべれることができていたんでしょう。五つですから。
それまでは、聴こえたり聴こえなかったりしていたのです。」
「・・・・・・その時のこともちょっと憶えていて、三角形みたいなものや数を数えたり、何か字を書かされたりしました。だから、その時には苦労しながらでも聴こえていたということになると思います。
だから、、五歳、六歳の頃は、いくらかでも聴こえていたということは間違いなく言えますが、その後は耳が悪化してきて、聴こえたり聴こえなかったりを繰り返すようになり、熱を出して年中安静で寝ていなければしょうがないというかたちになったので、からだは弱いし、最年少だから小さくて、何かと困ったことを憶えています。まだいくらかはしゃべることはできたわけですれども。」
「それで、自治会当番、今でいう議長を務めることになったわけですが、確か二回目か三回目の討論の時に、ボスを中心にした連中が議事妨害をはじめたことがありました。野次を飛ばしたり、意味もなく冷やかしてみたり、ちょっと言い返すとここぞとばかり騒ぎ出したり、ともかくすごい妨害だった。・・・・・・
それで、腹を立てて、ボスに向かってそんなに邪魔をするなら帰ってくださいと怒鳴ったんです。そうしたら、こっちは喧嘩になると思って身構えているのに、その子が、こっちを見たと思ったらポロポロ涙を落とし、えーんと泣き出して本当に帰ってしまった。」
中学生になるまでは、聴こえたり聴こえなかったりすることはあったにせよ、ことばをしゃべっていたようだ。
母語(第一言語)の獲得には、年齢の臨界期があるという説もあるが、はっきり確定したものではない。
神経生理学者エリック・レネバークは言語獲得の臨界期は12歳~13歳はまでであるとする説を述べている。(Eric.H.Lennberg 1967)
「ソマティック心理学」の中で久保隆司は脳の「プルーニング」という現象について述べている。
「脳では生涯に3回プルーニングが行われると言われます。1回目は、胎児のときの爆発的に増加したニューロンのプルーニングです。2回目は生後8か月をピークに18カ月頃までのシナプス結合のブルーニングです。3回目は、10歳ごろの大皮質の(左)前頭葉の部分(ブローカ野)のプルーニングです。」
プルーニングとは、「刈り込み・剪定」と呼ばれる現象で、過剰に生成されたシナプス結合
の中で、不要な神経細胞のシナプスが大量に削除剪定され、死滅していく現象である。
久保はさらに最近のものとして、脳神経学者ギードの研究を紹介している(Giedd et. all,1999,2004)。
「・・・ 男性では12歳ごろにシナプス結合が急激に増加しだし、大脳新皮質の厚みが増し、そして20歳ごろまでにはプルーニングで調整されていくのです。・・・・・・
脳の重要な発達はそこで止まるのではなく、思春期のピークを迎える16歳頃までを考慮に入れる必要があるということを示しています。」
竹内敏晴の場合はどうだったのだろう?
「中学一年の秋から、四年の冬まで、私はほとんど完全なツンボだった。・・・・・・
私が中学四年のときに新薬が開発された。・・・・・・
五年生になると、病状ははっきり安定した。・・・・・・
聴力は正常人に比べて五、六十パーセントは恢復してきた。しかし、聴力が恢復することと、聞くことができるということは別のことである。なぜなら、音は、注意をほかに奪われているときには,聞こえない。私たちのからだは、聞く、つまり音を選んでいるのであって、無差別に音が飛び込んでくるわけではない。だからよく『聞く』ためには、持続した注意の訓練がいるのだ。
まして、話をすることは、聴力が生まれてからやっと始まる。-ちょうど赤ん坊のヨチヨチ歩きのような―長い努力の先のことになるのだ。困難は二つある。一は、こえを出して発音できること、二は、自分の発したこえを、外からの音として聞き分けられること。」
「私の作業は、まず、自分の見たもの、感じたことを単語に見出すこと、次にどれをどう組み立てたならば他人に理解できるかを発見すること、そして第三に、それをどう発音したら他人に届くのかを見出すことだった。・・・・・・、
第一の作業は、心の中で始まった。自分の心の動きを見つけながら、それにふさわしいことばを見つけ出してゆく。そのとき、自然に、心の中で、発音せずに口にしている。・・・・・・
第二の作業は、ずっと困難だった。・・・ 一つの、私に固有の『言語構造』がどうやって生まれうるか、形成されるかという問題で、それは、ほんとうは第三の作業の問題と深くかかわっているはずだが。」
「十六歳の終わりごろ、ようやく耳が聞こえ始めたときから、私はおずおずと、しかし、いやおうなしに、会話、あるいは対話の世界に入りこんでいかざるをえなかった。まず、音としてことばをとらえなければならない。私はいつの間にか次のような努力をしていた。
第一は、相手の口をまっすぐに見つめて、唇の動きと、わずかに鼓膜に響いてくる声とを重ね合わせて音を聞き分けること。・・・・・・ よく読唇術などというが、普通、人々は発音の際にそれほどまで明確な唇の形をしめすものではない。・・・・・・ 日本語の場合、発音発声は、普通に思いこまれているほど唇の形に依存しているわけではなく、むしろ口腔内の形と、舌の動きに多くを頼っていることが最近の研究では明らかになっている。唇の形じたいよりもそのうしろにある相手の顔やからだの微細な動きを感じとるということになる。・・・・・・この相手の唇を見つめる姿勢はその後およそ二十五年間続いた。そして、ことばについての私の姿勢に多分決定的な支配力を持ったと思う。」
竹内敏晴はこの状態から長い時間をかけて自分でことばを見出していく。デカルトの「精神指導の法則」、「方法序説」に出合い、独力での、ことばを見出していく長い過程に踏みだしていく。これらの道筋は「ことばが劈かれるとき」の中心課題なので、そちらを読んでほしい。
13歳まで隔離された少女ジーニは、その後、二語文までしか話せなかった。(スーザン・カーチス「ことばを知らなかった少女ジーニ」1977)
竹内敏晴の場合はそれとはあきらかに違う。ジーニの例をここで持ち出すのは、見当違いなことかもしれない。しかし、後に竹内敏晴は、自分のことばと「人間である」「人間になる」ことの関係に、深く苦しむことになる。そして、長い時間をかけてそれを超えていく。
竹内敏晴は基本的な言語構造を獲得していたと考えられるが、中学一年から四年までほとんど耳が聞こえななかったことは、この先途方もない困難を生じさせることになる。
それと共に、後に「からだ」の発見に至る萌芽が、この相手の唇を見つめる二十五年間の試みから生まれたように思われる。
コメント
コメントを投稿