今日(2017・6・16)の朝日新聞朝刊「折々のことば」で、鷲田清一さんがほぼ同年代の野家啓一さんの次のような言葉をあげていました。
「経験は物語られることによって初めて経験へと転生を遂げる」
鷲田さん、そして野家さんもおそらく、前回にあげた木村敏さんにも通じる視点で、竹内敏晴に関心を持ってきた哲学者ですし、目下このブログで三好さんが繰り広げている「竹内敏晴」と「竹内レッスン」にまつわる「自分語り」が、野家啓一の言う「経験」へと「転生」を遂げるのかどうか、ひそかに応援もしながら、興味深く読ませてもらっています。
さて、今日は「レッスンを受けた者」として語る物語ではなく、とりあえず視点を引っ繰り返し、「レッスンをする者」が語る物語が、竹内さんの場合、どういったものだったのかを探る一つのヒントになると私が考えた、文章を紹介したいと思います。
「レッスンをする者」の語りは、当然ながらした人の数だけあります。このブログでも、三好さんと瀬戸嶋さんがそれぞれに書いていますし、これからも書いていかれると思いますが、以下にあげる文章は、あくまで「レッスンを受け、レッスンをしたことはない」私に見えた、竹内敏晴という「レッスンする人」についてのヒントに過ぎません。
その文章は、親鸞・唯円のコンビによる『歎異抄』の「第四条」です。唯円が何者かということについては諸説あるようですが、ここではあまり必要ないので省きます。ただ、この本が、一人の弟子が聞いた師・親鸞の話を、時を隔てて物語った口伝、今で言えば「聞き書き」であることは大事かもしれません。「経験は物語られることによって初めて経験へと転生を遂げる」ことの証だてる典型的な書物の一冊だと思うからです。「レッスンをする人」として、竹内敏晴がどんな構えでレッスンに臨んでいたのか。どうして私には『歎異抄』がそのヒントとして見えるのか。まずは、お読みください。
最初に原文を、次に現代語訳をあげます。できるなら、はじめは現代語訳を介さずにお読みいただくといいのですが。
(原文)
第四条
一 慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。
聖道の慈悲というは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。浄土の慈悲というは、念仏していそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもふがごとく、衆生を利益するものをいふべきなり。
今生に、いかに、いとをし、不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲、始終なし。
しかれば、念仏まふすのみぞ、すえとをるたる大慈悲心にてさふらうべきと云々。
(現代語訳)
第四条
仏教には聖道門と浄土門という二つの教えがありますが、慈悲にもまた二つの考え方があります。
聖道門の慈悲とは、すべてのいのちあるものを、あわれみ、いとおしみ、はぐくむことです。しかし実際には、これらのものを思うように救うことは、きわめてむずかしいことです。
いっぽう浄土門の慈悲とは、阿弥陀さまのお救いを信じて念仏し浄土に生まれ、すみやかに仏にならせていただき、そのうえで、仏の大いなる慈悲心によって、思いのままに、すべてのいのちあるものに救いの手をさしのべることをいいます。
この世において、どんなにかわいいとか、かわいそうだと思っても、思うように助けることはできません。したがって、聖道門の慈悲は、不完全で中途半端なものです。ですから浄土門に帰依して、阿弥陀さまのお救いを信じて念仏をとなえることだけが、ほんとうに徹底した大いなる慈悲心だと思います。
このように、聖人は仰せになりました。
(『新版 歎異抄 現代語訳付き』/千葉乗隆訳注/角川ソフィア文庫)
この条で語られているのは、聖道門と浄土門、二つの対比によって導かれた浄土門の優越ついてです。つまり親鸞は、すべてのいのちあるものを、あわれみ、いとおしみ、はぐくみ、それらをどんなにかわいいとか、かわいそうだと思っても、実際には、これらのものを思うように救うことは、きわめてむずかしく、思うように助けることもできないので、自分は、阿弥陀さまの救いを信じて念仏をとなえることだけが、ほんとうに徹底した大いなる慈悲心だと思うと言い、それを実行したのでしょう。
竹内敏晴を、仮に聖道門か浄土門かと言えば、間違いなく浄土門の人だったと私は思います。つまり、(とくに80年代以降の)彼は、レッスンの場で生じる人間関係を外の世界に引きずることを避け、レッスンをその場で独立させ、あとはむしろ物語ることによって公共の次元でも成り立つ半ば抽象的な経験として転生させようとしたのではないでしょうか。親鸞にとっての念仏や浄土、そして阿弥陀如来そのものがそうであったように。あざとい言い方をすれば、レッスンの場で生じた人間関係、確執、あるいは情緒などは、終わったものとしてその場でいったん断ち切り、いつも新しく前に進もうとしていたということです。「レッスンを受ける側」に立つと、それが強い言い方をすれば「裏切り」や「不人情」と見えたこともあったに違いありません。
私の知っている限りでは、彼は書いたものの中で『歎異抄』について本格的に語ったことはありません。でも、私はあるインタビューで彼の口から、旧制高校で知っていつも持ち歩いていたという『歎異抄』から「卯の毛羊の毛の先にいる塵ばかりも作る罪の、宿業にあらずということなしと知るべし」の一節を引用して暗唱し、「このことばのリアリティが、ずっと胸の底に響いている。人間というのは、中に何が潜んでいるかわからない凄まじさがあるということを、常に考えています」と言うのを聞いたことがあります(『生きることのレッスン』、2007年)。戦後の公私とも混乱していた時代、禅寺を求めて放浪していたころには(彼はそのころに失語の状態に陥っていたといいます)、常時携えていた本の中の一冊に『歎異抄』があったとも聞きました。
以上、『歎異抄』を引いて竹内さんを語ろうと思ったのは、最近、映画作家の森達也さんと、法然にからめた対談する機会があったからでした(『希望の国の少数異見』、2017年)。その際、前回にこのブログで書いた、竹内さんと行った湊川高校での演劇経験について、「念仏」にからめてあらたに「物語」っている箇所がありますので、最後にそれを引用して、この稿を閉じることにします。
●今野 ええ。それで念仏してどこに行くかというと、理屈の上では、要するに「はからい」をしない境地にまで行くわけですよね。で、その「はからい」をしない境地をどう具体的にイメージすればいいのかと考えてしまうわけです。「南無阿弥陀仏」って言ったときに、なにも考えない。そういう境地に行くためにはどうするか。行くことなんてできるのか、「南無阿弥陀仏」という記号を「言葉」にせず、はからいのない「ことば」として使うという隘路をどうしたら見つけることができるのか、と。
森さんは何て言うかわかりませんが、ぼくも少しは芝居をした経験があるので、そこから想像してみました。たとえば芝居で役者がある演技に集中しようと思ってもなかなかできないことがあります。具体的な例を挙げると、ぼくは竹内さんと一緒にさきほどの湊川高校に行き、林竹二さんが研究した日本で最初の公害だったとされる「足尾銅山鉱毒事件」で、谷中村の抵抗を指揮した田中正造を題材にした芝居に出たことがあります。自宅を国(明治政府)に取り壊される大工の役で、その強制収容の現場に押し寄せる多くの官憲の前で「俺は動かん」とノミを畳に突き立てて、凄みのある啖呵を切るという役どころでした。その稽古で、いくら力を入れて怒ろうとしても喋りに全然リアリティが出てこない。自分でもリアリティがないと感じるくらいだから、周りから観ていたら、もう観てられない芝居だったに違いありません。
ぼくは、そのときに正座していました。正座して眼の前の官憲の役をやっている芝居仲間の顔を見て喋っていた。で、日常的な感覚が邪魔をして、どうしても集中できずにいたわけです。すると演出していた竹内さんが「おまえ、横になって膝だけ立てて横柄な感じで言ってみろ」というようなことを言った。肩肘ついて、片膝を立て、つまり傲慢な田舎の大工にありそうな、人を人とも思わない姿勢をとれと。ぼくはそんなことを自分がするなんて発想のない、まだ二十代半ばの青年でしたから、その指示にまず驚いた。でも、実際にその姿勢をとって喋り始めると、まず声が変わったんです。「お、変わった」ってことが、自分でわかっただけでなく、まわりにも伝わるのがわかった。
で、その時に頭に浮かんできたのが、ちょっと突飛ですけど、昔の日本間のふすまの上にあった欄間でした。自分が小さい頃に好きだったおじさんの家に初めて遊びに行き、そのまま泊まって目覚めた次の朝に、蒲団で寝ていて目に入ったおじさんの家の客間にあった見慣れぬ欄間、その映像がいきなり浮かんだんです。それが、稽古の現場で想像上の大工の自宅の部屋と重なって見えたわけですね。そうしたら急に集中がやってきた。
ふつう演出家は、構成があって、意図があって、目的があって、だからこういう演技をしなさいという風に、理路で演技指導します。ところがこちらは、その理路に従って演技をしようと思って、一所懸命集中しようと思うんだけど、頭でわかっていてもそれだけでは集中できない。でも、一見何の関係もないその思い出の欄間を引き出した想像力によって、ぼくは芝居の本筋から逸脱することもなく集中ができた。つまり、目の前にいた警官の役の連中が、日常的な友だちではなく、本当に警官に見えたわけです。それだけじゃなくて、観客もどうやらオレの集中をわかっているなということまで、自分の集中を絶やさずにわかる。オレは、今アクチュアルに動いているという感じが脚の裏から手の指先から、全身でわかるわけですね。しかも、そのもともとの想像力には役者の「からだ」の記憶と言いますか、大袈裟に言えばぼくの幼年時代の「思い出」や「歴史」が宿っている。集中って本来そういう、無意識がもたらす無秩序のまとまりとでも言いますか、摩訶不思議なところのあるものなんですよね。役者の中で、フィジカルな問題とメタ・フィジカルな問題が直結してしまうことがある、といった人がいたけれど。
だから、たとえば六〇年代のアングラ芝居は、戯曲と演出家と俳優のヒエラルキーを壊したという言い方がありますけれど、やっぱり役者たちの「からだ」が、偶然に近い何かの作用によって、急に変わる。まずそれがあって、多くの場合は複数の変わった「からだ」を介したときに錯綜する「個」の歴史の重なりのなかで、戯曲なり演出意図なりが観客に伝わっていく。芝居とは、本来そういう重層性のある空間(ルビ→トポス)であるということがあります。
ちょっと飛躍するけれど、「南無阿弥陀仏」で見えるものがあるとしたら、何かそれに類したものではないかと思うのです。ただ唱えるだけの「南無阿弥陀仏」とは、「はからう」ことなく「集中」するという状態に人を導く仕掛けの謂いなのではないか。インテリじゃなくても、虐げられていても、奴隷であっても、たとえ子どもだったって、これならみんなにできる。法然はそこまで見通して、五逆罪を犯す者も赦したんじゃないかと、そんなことを考えたわけです。
以上
「経験は物語られることによってはじめて経験に転生を遂げる」という野家啓一さんのことばは身に染みます。
返信削除「レッスンする者」のかたる物語が、竹内さんの場合、どのようなものであったのかを探る一つのヒントとして、親鸞の『軟異抄』と「四条」が取り上げられています。
私はこの『軟異抄』も含めて、道元やその他禅家のことば、イエスのことばなど様々なものが、竹内敏晴の中に去来していたと思っています。
それらについてはこれから順次語っていきたいと思っています。
念仏について書いてあるのは、「時満ち来れば」の中に、「家に伝わる文化」という小文があります。
瀬戸内の島のおかみさんから軟異抄の話を聞いたことが記られています。
「・・・このあたりは門徒が多いのですよ。私らも娘の頃から、軟異抄やら教行信証やら、読ましてもろうて来ました。
私はいささか驚いて、教行信証!あの難しくて大部なものを、と呟くように言いかけると、
―まあ、やさしく解き明かしてくださるようなもんでしたけれども。
と何ごともないように言う。
・・・・・・
-ただナムアミダブツと信じて唱えされすればいいという、その「信じる」ということが紙一重でなかなかできんのです。むつかしい。真宗は易行じゃ易行じゃ言いますが、家、真宗が一むずかしいとおもいますよ。」とまだまだ続く。
この80年代以降のレッスンは、「浄土門」であるという見解に私はくみすることはできません。
80年代以降という言い方が正確でなく、私は83年まで竹内敏晴のレッスンを追いかけていました。この頃の彼のありかたを「慈悲」という言い方で取り上げるのは抵抗があります。
竹内演劇研究所の開設に際して、「演技レッスンでしか劈かれない人間性の可能性を劈きたい。」と述べていますが、それがどれぐらいその頃の演劇本科生に理解されていたのか?
竹内スタジオの人たちが1回目の湊川公演に参加しました。それは、竹内敏晴にとって、とても深い体験になりました。しかし、この上演の後、中心的なメンバーが何人も抜けました。
このごからだ’79-’81年で芝居を持っていきましたが、からだの人たちのとっては、それまでのレッスンの延長であると無意識に理解していたと思います。
これらの上演が「からだグループ」のレッスンでもあり、湊川高校の生徒への授業であったと今は考えることもできるのですが、そういう了解はその当時全くなされていません。
レッスンを始めると、その人の中に何かのプロセスが始まります。そのプロセスを本人が納得するまで見守る必要があります。
その頃一緒のレッスンに参加した鳥山敏子さんと、「竹内さんはレッスンに参加している人のことが全く分かっていない。」とよく話をしていました。
それに、80年の「セチュアンの善人」でシェンテ役をやっていた「有子」が、「竹内さんは『ことばが劈かれるとき』を読むべきだと何度も言っていました。
大雑把に言えば、竹内敏晴は「老いのイニシエーション」で、全く新しく生きなおし、80歳代になってからまた変わったというように思います。一つ一つ自分の必要性において、進み続けたと思います。そして、それらは「普遍性」を持っています。