私は何故こんなにも竹内敏晴にこだわり続けるのだろう? 2 竹内敏晴のレッスンの原イメージ

 竹内敏晴の「時満ちくれば」に「ある弓術指南」という一文がある。そこから少し長いが引用してみよう。

 「・・・・・・私は敗戦後は弓に打ち込む心を失っていたが、後輩のためにコーチを引き受けはした。 ・・・・・・Nの順番が来、引きしぼった姿を見て、私ははてなと思った。
 彼は当時名門の府立の中学から弓をやっていて、確かに初段であったが、おとなしく、あまり覇気のない、二十射すれば八中はするが、それ以上にも以下にもならぬ、いわば可もなく不可もない、といった選手であった。それが今目の前に視ると、なにかしら巨きな形が、いわばその背後に、見える。今引いていかれの姿そのものは、小さく貧しい。だが、暈のように、幻のように、巨きな射の姿が浮かんでくる。
 ・・・・・・
 翌日から、私はかれに猛然と襲いかかった。・・・全くの初歩の基礎から一つ一つをやり直した。
 かれは今までと変わらぬ可もなく不可もないといった表情で、黙々と私のけいこを受け入れていった。やがて、・・・・・・射は少しずつ崩れ、そして変わり始めた。
 的に向かうと、かれの矢は次第に当たらなくなっていった。矢はしばしば地をすべり、弓から外れて床にころがり、甚だしい時は後方へ逸れて飛んだりした。稽古すればするほど当たらなくなる。試合まであと数日という頃になると、二十射で一中か二中しかできぬようになった。
 ・・・・・・
 試合の当日、私は思い切ってNを副将の位置に据えた。・・・彼の顔が白くなり、次に息が深くなって、ぐっとからだ全体をふくらませたような感じになった。
 試合が始まった。・・・・・・
 ・・・どっしりとして動きが静かになり一射ごとに見る見る姿が巨きくなくなっていく。・・・・・・
 ひとつの『こと』が、あるいは『からだ』が、生まれるというか、成り立っていくというか、の瞬間は、凄まじい力の漲りが芽をふかせ幹を押し上げるものだ。・・・
・・・・・・
 Nの射が生まれ、そして岩のようにがっしりと立ち始めるのを、私は驚きと喜びとある畏れをもって見つめていた。その巨きさは、いよいよ現れ出てみると、一カ月前に私が見たものとくっきり違ったものだった。
 ひよっとすると私にとって、レッスンとか授業とかいうことの原イメージがここにあるのかも知れぬと思うことがある。」

 これを初めて読んだ時、私とのレッスンもこのようなものであったのかと思った。

 レッスンは一つ一つ新鮮だった。私にとっては、「体験」するということの連続だった。ということは、それまで行動していなかったということだ。

 小学生時代を思い出すと、私は近所の子どもたちのグループと毎日遊んでいた。学校が終わり、ランドセルを玄関に放っ投げて、遊びに出かける。そして、暗くなって母が「ご飯だよ!」と呼びに来るまでみんなで遊んでいる。
 田んぼのあぜ道、小川の中、高校の校庭(この頃は誰でも自由に入ることができた)、たばこの専売公社の塀を乗り越え、中を遊びまわった。村の小さなお堂の中で、いろいろな遊びをした。バクチやゲームなどである。ゲームもほとんどは手作りだった。高校の校庭では線を引いて陣取り合戦・肉弾戦をしていた。学校全体を使って隠れん坊もしていた。ほとんどが農家の子どもたちで、年齢の違う12,3人のグループだった。大人は全く関与しない子どもたちだけのグループだった。このグループの中で吃ることを意識することは全くなかった。まことに幸福な時間であった。

 中学生になり、引っ越しをし、このグループとは別れることになった。新しい地区は商業地域で、あまり一緒には遊ばないようだった。次第に学校の子どもたちを一緒にいるようになった。
 中学2年生の頃からだろう。自分の吃音を意識するようになったのは。それまでは吃ってもあまり意識していなかった。他の人と違う自分というものをあまり意識しなかったのだろうと思う。全く意識しなかったというわけでない。一緒の遊んでいる弟ができるのに、私はできないというような場合には、私というものを意識していた。しかし、それ以外では、そこで起こっていることと自分を区別するようなことはなかったのだろう。

 吃ることを意識するようになるということは、自分が他人と違っているということに気がつくことだ。私の場合は、自我の芽生えが吃音を意識することと重なっている。

 どの時点から行動しなくなったのだろう?中学生2年生のときまでは柔道をやっていた。しかし、吃音矯正所に通うために、3年生のはじめに東京の中学に転校した。母の弟夫妻の家に置いてもらって、夜吃音矯正所に通った。
 一年ほど通ってほぼ良くなったように思った。しかし、香川県の実家に帰ると、吃音はすぐにぶり返した。それも、吃音矯正所でさまざまな吃音症状にふれたせいか、前よりも症状が悪化したような気がした。
 高校では、英会話のサークルに一度行ったが、それきり行けなくなった。それ以外何のサークルにも参加していない。友達がいないわけではない。数人の親しい友達がいた。

 中学3年生になり、東京に転校した。何カ月が経ったある時、登校時に一緒になった初めて会う人と話になった。それは、「どちらが強いか?」という話になった。私は、「負けることはないと思う」といったようなことを言った。それからその相手との関係が、険悪になった。
 その人は番長グループの一員で、個人で対決しようとはしない。その番長グループのようなものとの間が緊張関係になった。屋上に呼び出されて、数人で殴ったり蹴ったりされたことがあった。興奮しているせいか、背中を丸めてかばっているとそんなに大きなダメージを受けなった。そのグループの先輩の話などをされて脅された。しかし、全く私は屈しなかった。私の中には何か「凶暴な」ものがあり、痛みをあまり感じさせないようであった。段々そのグループの攻撃は激しくなり、最期には私は学校へ行けなくなった。もう卒業時に近かったので、学校に行かなくても問題はなかった。だから、中学の卒業式に出ていない。

 高校生になって、「吃音のことで誰かに馬鹿にされたら、その相手半殺しにしてやろう」というような気持が動いていた。目じりの先がつりあがり 、凶暴な顔になっていた。そのような雰囲気を漂わせていたせいか、誰も吃音について馬鹿にするようなことを面と言われたことはなかった。
 ただ、ある時ある人と何かで喧嘩したときに、私は興奮して吃音が起こらなかった。それに味をしめて1か月か2か月に一度ぐらい、相手に因縁をつけて喧嘩をするようになった。あんまり本格的な殴り合いになるようなことは少なかった。雰囲気で脅していたようなものだ。私は凶暴で殺気を発していたのだろう。やがて一年ほどすると、喧嘩をしても興奮しなくなり、吃音が戻ってきた。それで、喧嘩をすることはやめた。

 小学生のときとは大きな違いである。これが思春期ということか?

 大学に入り、やはり授業には全く興味を持てず、それに大学闘争が続いていて、バリケードがはられ、授業はないことも多かった。
 音楽のサークルに入ったがすぐに行けなくなった。ある場合には、授業で最初に出席を取るのに自分の名前を言われて、「ハイ」ということさえ答えることができなくなり、授業に参加しなくなることもあった。
 この頃は「芸術」にふれることで、何とか生き延びた。最初は新宿のジャズ喫茶の片隅で音楽を聴いていた。一番好きだったのは、ジョン・コルトレーンのアルトサックスの曲。マイルス・デービス、セロニアス・モンク、ビル・エバンスなどさまざまである。やがてコルトレーンが亡くなり、ジャズから離れた。そして、現代音楽に興味を持った。それらは、アメリカ文化センターや日独文化センターなどで無料で行われていた。シェーンベルク、武満徹、ブーレーズなどさまざまである。
 映画はたくさん見ていた。高倉健のやくざ映画から前衛的な映画まで。ゴダール、フェデリコ・フェリーニ、吉田喜重、大島渚などたくさんの映画監督のものを見た。
 芝居は、早稲田小劇場、黒テント、赤テント、少し後では転形劇場、つかこうへいの劇団など。
 美術では、画集で見ることが多かったが、一番好きだったのは、ヒロ二エムス・ボッシュ。その他ルドン、ハンスアルチンボルド、フランシス・ベーコン。

 これらの作品にふれながら、私はなんとか自分の命を保っていたのだ。

 私は自分が何かクリエートすることなく、いろいろなものを享受していたのだ。
 吃ることは、私が何か行動することに制限を与えた。

 ともかく仕事について何とか生活していくことはできるという安心感は得た。しかし、私には全く何もなかった。

 このような状態で私の竹内敏晴さんとのレッスンは始まったのだ。

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