私は何故こんなにも竹内敏晴にこだわり続けるのだろう? 1 竹内敏晴と会う前の私

 私は何故こんなにも竹内敏晴にこだわるのだろう?
 大きな影響を受けたのは確かだ。それにしても、こんなにもいつまでも、「レッスン」だけにこだわっているのだろう?

 私の竹内さんとのレッスンは1983年には終わっている。しかし、レッスンで体験したことはずっと私に影響し続けている。竹内さんのレッスンが自と他が融合した状態で行われていたせいで、私は混乱しているのだろうか?

  私は子どもの頃から、特別の才能がある人間ではなかった。3歳下の弟が、運動能力でも学習能力でも、格段に私より優れており、私はそれにかすかな劣等感を感じていた。
 それに、私はもの心ついた時には吃っていた。思春期になるまでは、吃っていてもあまり自分では気にしていなかった。
 私の場合は、自我が生まれるのと(他人と自分が違うのだ)と吃音を気にするようになるのが、同時であった。ほかの人たちが吃らないでラクラクとしてしゃべっているのを見て、何で自分はあんな風にしゃべれないのだろうと、不思議に思ったものだ。
 高校生の頃は、6時間の授業中、5時間ぐらいは眠っていた。授業には全く興味が持てなかった。教師は誰も注意しなかった。私たちの頃は生徒の数が多く、一クラス55人ぐらいで13クラスもあった。だから、教師には一人一人に注意する余裕などなかったのだろう。
 3年生の夏休み後にぐらいに、進路を私立大学に決めて(3教科のみ)、3か月ぐらいまともに受験勉強をした。そして、何とか志望校へ入れた。
 高校1年生のときには、自分の吃音を自分で何とかしようと、言語障害学・病理学の分野に(もっとも日本にはその頃はそんなものはなかったが)進もうと決めていた。そのために中学の時に行った吃音矯正所の所長が行った、大学の心理学科へ入った。卒論は吃音で書いた。
 大学2年生のときに友人と二人で大学の裏の坂道を散歩している時に、国立聴力言語障害センターがあるのを見つけた。そして、言語科に飛び込むと、課長の神山五郎さんが応対してくれた。そして、2年後にここに日本で初めての言語治療士の学校が出来ると教えてくれた。
 私の大学卒業時に、国立聴力言語障害センター付属聴能言語専門職員養成所(1年間)が出来た。私はそこへ入った。各分野のとびっきり優秀な先生たちが教えてくれた。ここではじめて少しまともに勉強した。
 養成所を卒業して、これもその当時できたばっかりの東京都老人総合研究所リハビリテーション医学部聴覚言語室に助手として勤務するようになった。吃音をやれる場所がなく、失語症の研究が中心であった機関に勤めるようになった。
 大学、養成所、老人研を通して、吃音研究に関する日本語と英語の文献はほとんど読んだ。しかし、治療によって吃音が治ったという例は一例もなかった。わずかに、自然治癒した例をいくつか集めたものがあるだけだった。
 このことで、近い将来私の吃音が良くなることはあり得ないということが分かった。そして、自分が言語障害者であることを受け入れるよりしかたなくなった。ある時、吃りながらでもいいから人前に出て行こうと決心した。そうすると不思議なことに少し吃音が軽くなったような気がした。しかし、吃ることは続いていた。何とか吃リながらでも学会発表が出来ることで、仕事が続けられることが分かったことも安心感につながった。



 

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