一筋の光

 私は暗い闇にいる時に、ケン・ウィルバーの著作を読み、身心統合(ケンタウロス)の先に、心霊、微細、元因、非二元という発達状態・段階があることを知った。ケン・ウィルバーの書いたものは、途方もなく包括的なもので、これはその一部分である。
 しかし、ウィルバーの言っていることがどれだけ妥当性があるのか分からなかったので、何人かの人のウィルバーの言っていることをどう思うかと問い合わせた。

 同時にウィルバーが本の中で紹介している「瞑想」のいくつかを自分でやってみた。全くの自己流である。その中で、ラマナ・マハルシの「私は誰か?」という瞑想が今の自分に一番合っているような気がした。始めるとすぐにからだがリラックスし始める。
 私は去年の5月にレッスンをやめたが、吃音者のレッスンだけはやっていた。まだ始めたばかりだったので、ここでやめると何をやったのか分からなくなると思い、何とか続けていた。
 私は腎臓が悪く、数年前から人工透析を始めていた。段々と、週1回しかレッスンが出来なくなっていた(と思っていた)。月、水、金と透析があり、土曜日を休養にあて、やっと日曜だけ一日レッスンが出来るという状態であった。
 ラマナ・マハルシの「私は誰か?」と問い、そこで意識していることを答える(例えば考えている、からだを動かしている、痛みを感じている、不安であるなどなど)と、たとえば不安に襲われているとすると、「私は不安に襲われていることに気がついている。だから私は不安ではない」と否定していく。
 これを無限に続けていく。私の状態は常に変化していくが、それに気がついている変わらない私を「私ー私」として立てていく。
 そうすると、私の疲れや不安に気づいていながら、それに縛られなく動けるのではないかと思うようになった。そこで実際に本当であるかどうか試してみることにした。
 吃音者のグループで9日間連続して稽古して発表会をやることにした。この吃音者のグループは細々と続いていた。ある段階で芝居をやりたいと思っていた。ある程度集中した状態で、吃らない状態を体験してほしいと思っていた。これは不十分ではあるが、ある程度吃らない状態を体験したのではないかと思う。
 私は、人の助けを得ながらも、何とか9日間のレッスンをからだを壊さないで終えることが出来た。

 自分のからだに気づくだけでは、元気な時はいいが、からだを壊したり、老いてくるときには、痛みや疲れを強く意識するばかりだ。それに気がつきながらも、それに囚われたり、縛られたりしないで動いていける「私ー私」がある。

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