私の変容についてその当時次のように考えている。
「よく考えてみればそれは当たり前だった。私もその一部分であるが、世界=宇宙は私と区別されて確かに存在する。しかし、それは渾沌(カオス)であり、それ自体としては捉えることが出来ない。私は私の限定された感覚器官でしか、渾沌を切り取ることが出来ない。
私も自然=宇宙の一部分であるが、ある自律的なまとまりを持っている。その大宇宙から区別されてくる、しかし、大宇宙と離れることのない一つのまとまりが私である。そして、私と大宇宙が触れている所がせかいである。その世界は特定の感覚器官によって切り取られたものである。ある範囲のものしか、見たり聞いたりすることができないし、その範囲の中をどのように区分するかが知覚の様式である。人間の場合は、その区分に言語が多分に関与している。
私の知覚している世界とゴキブリの知覚している世界が全く別のものであることに思い到って驚いた。ゴキブリは、現に私が切り取った世界を、ゴキブリの感覚器官で知覚しているのではない。ゴキブリはゴキブリで、ゴキブリの感覚器官で渾沌を切り取り、ゴキブリ用にそれを知覚として取りまとめている。私とゴキブリの間に、地球上にいる生物として、知覚の様式の共通性を考えることが出来るが、それはここでの問題ではない。誰にでも、その生物にも、公明な世界などというものは存在しない。それぞれが、大宇宙と触れた所で、渾沌を自分用に切り取り、世界を知覚している。
逆に言えば、今、私が知覚している世界は、私が知覚しているから存在する。渾沌=宇宙は、私という小さなまとまり=単位がこわれても存在するが、今、私が見ている世界は、私が見ているから存在する。私がいなければ、今、私が見ているようには世界は存在しない。」
これを書いた少し後での、ユクスキュルの「環境世界」の考え方に触れて、よく似ていると思った。
「よく考えてみればそれは当たり前だった。私もその一部分であるが、世界=宇宙は私と区別されて確かに存在する。しかし、それは渾沌(カオス)であり、それ自体としては捉えることが出来ない。私は私の限定された感覚器官でしか、渾沌を切り取ることが出来ない。
私も自然=宇宙の一部分であるが、ある自律的なまとまりを持っている。その大宇宙から区別されてくる、しかし、大宇宙と離れることのない一つのまとまりが私である。そして、私と大宇宙が触れている所がせかいである。その世界は特定の感覚器官によって切り取られたものである。ある範囲のものしか、見たり聞いたりすることができないし、その範囲の中をどのように区分するかが知覚の様式である。人間の場合は、その区分に言語が多分に関与している。
私の知覚している世界とゴキブリの知覚している世界が全く別のものであることに思い到って驚いた。ゴキブリは、現に私が切り取った世界を、ゴキブリの感覚器官で知覚しているのではない。ゴキブリはゴキブリで、ゴキブリの感覚器官で渾沌を切り取り、ゴキブリ用にそれを知覚として取りまとめている。私とゴキブリの間に、地球上にいる生物として、知覚の様式の共通性を考えることが出来るが、それはここでの問題ではない。誰にでも、その生物にも、公明な世界などというものは存在しない。それぞれが、大宇宙と触れた所で、渾沌を自分用に切り取り、世界を知覚している。
逆に言えば、今、私が知覚している世界は、私が知覚しているから存在する。渾沌=宇宙は、私という小さなまとまり=単位がこわれても存在するが、今、私が見ている世界は、私が見ているから存在する。私がいなければ、今、私が見ているようには世界は存在しない。」
これを書いた少し後での、ユクスキュルの「環境世界」の考え方に触れて、よく似ていると思った。
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