しかし、私はこの頃一生を共にしたいと思う女性と出会い、その人はまだ若かったので、何の見通しもないニューヨーク行きは実行できませんでした。そして竹内さんから「日本にいるなら研究所に戻ってくれ」と言われレッスンに戻りました。
この決断は良かったのかどうか?それを問うのは今更意味がありませんが、私の弱さ、女性依存が竹内さんとのレッスンでは手がつかなかったのかもしれません。
その数年後竹内さんはある女性との出会いで家を出ます。その結果竹内演劇研究所は解散しました。
最初の8年間は毎日の出来事がとてもクリアではっきりしています。それに比べるとその後は記録も少なくなっています。
竹内さんとの関係も少し変わってきたように思います。私が何か個人として竹内さんに接しようとすると、何かうまく行かないのです。前に竹内さんを全面的に信頼していた時には、何もかもうまく行っていたように思えます。しかし、私が竹内さんを全面的に信頼するのではなく、個人として接しようとすると何か距離が生じるのです。
私たちが作っていた「からだ」というグループは、80年過ぎには解散しました。何人かのメンバーは社会に戻るのに非常に苦労したということも伝わってきました。私や高田豪は研究所のスタッフになったので、そのままで良かった(本当に良かったかどうかは別にして)のですが、ほかの人たちは社会に戻るのに非常に苦労したと。
それと演劇の方の人たちが、竹内さんがいないと自分たちだけで、竹内さんとやった時の集中度を持った芝居が出来ないで苦しんでいるように見えました。
このあたりで私に竹内さんに疑いが出てきました。
竹内さんの関心は、竹内スタジオの人たち、からだのグループ、湊川の生徒たちの「からだ」という風に移っていった。
今野哲男の「竹内敏晴」が子どもの頃の竹内敏晴の様子を明らかにしてくれました。
「・・・で、中学生では5年生になると立体幾何というのがありました。受験に関係ないので誰も勉強しない科目です。ところが、こっちは面白くてやっているからどんどん前に進む。・・・・・・
・・・・・・私は、別の目的のために何か役に立つから何かするということがもともと苦手です。面白いからやるというというところでは一貫しているというふうに、言って言えないこともないとおもいますね。」と竹内は述べている。
私には、竹内さんが何年かあるグループとレッスンをして、そのグループがある程度成長してくるうちに、竹内さんはそのグループの成長を見守るというより、また別のグループで新しく何かを始めるというふうに見えた。竹内さんにとっての興味、面白さと、レッスンの同伴者の成長の速度が違っていたのだろうか?
いやちょっと違うな。竹内さんは十分なことやったのかもしれない。しかし、メンバーの中には途中で放り出されたと感じる人たちが多いはずだ。
竹内さんには自分が性急に成長する必要があったのかもしれない。
竹内さんはレッスンを、メルロ・ポンティの「自と他が同一の系の項」であるということを使って、紹介している。
これが曲者である。例えば私との例で言えば、竹内さんにとってはレッスンの場において、私は「汝」として現れていたのだろうと思う。しかし、私にとっては、竹内さんは「汝」ではなく、私が生きる「場」=「グラウンド」であったように思う。
竹内さんに対して「汝」として向かい合うためには20年ほども離れている必要があった。
この決断は良かったのかどうか?それを問うのは今更意味がありませんが、私の弱さ、女性依存が竹内さんとのレッスンでは手がつかなかったのかもしれません。
その数年後竹内さんはある女性との出会いで家を出ます。その結果竹内演劇研究所は解散しました。
最初の8年間は毎日の出来事がとてもクリアではっきりしています。それに比べるとその後は記録も少なくなっています。
竹内さんとの関係も少し変わってきたように思います。私が何か個人として竹内さんに接しようとすると、何かうまく行かないのです。前に竹内さんを全面的に信頼していた時には、何もかもうまく行っていたように思えます。しかし、私が竹内さんを全面的に信頼するのではなく、個人として接しようとすると何か距離が生じるのです。
私たちが作っていた「からだ」というグループは、80年過ぎには解散しました。何人かのメンバーは社会に戻るのに非常に苦労したということも伝わってきました。私や高田豪は研究所のスタッフになったので、そのままで良かった(本当に良かったかどうかは別にして)のですが、ほかの人たちは社会に戻るのに非常に苦労したと。
それと演劇の方の人たちが、竹内さんがいないと自分たちだけで、竹内さんとやった時の集中度を持った芝居が出来ないで苦しんでいるように見えました。
このあたりで私に竹内さんに疑いが出てきました。
竹内さんの関心は、竹内スタジオの人たち、からだのグループ、湊川の生徒たちの「からだ」という風に移っていった。
今野哲男の「竹内敏晴」が子どもの頃の竹内敏晴の様子を明らかにしてくれました。
「・・・で、中学生では5年生になると立体幾何というのがありました。受験に関係ないので誰も勉強しない科目です。ところが、こっちは面白くてやっているからどんどん前に進む。・・・・・・
・・・・・・私は、別の目的のために何か役に立つから何かするということがもともと苦手です。面白いからやるというというところでは一貫しているというふうに、言って言えないこともないとおもいますね。」と竹内は述べている。
私には、竹内さんが何年かあるグループとレッスンをして、そのグループがある程度成長してくるうちに、竹内さんはそのグループの成長を見守るというより、また別のグループで新しく何かを始めるというふうに見えた。竹内さんにとっての興味、面白さと、レッスンの同伴者の成長の速度が違っていたのだろうか?
いやちょっと違うな。竹内さんは十分なことやったのかもしれない。しかし、メンバーの中には途中で放り出されたと感じる人たちが多いはずだ。
竹内さんには自分が性急に成長する必要があったのかもしれない。
竹内さんはレッスンを、メルロ・ポンティの「自と他が同一の系の項」であるということを使って、紹介している。
これが曲者である。例えば私との例で言えば、竹内さんにとってはレッスンの場において、私は「汝」として現れていたのだろうと思う。しかし、私にとっては、竹内さんは「汝」ではなく、私が生きる「場」=「グラウンド」であったように思う。
竹内さんに対して「汝」として向かい合うためには20年ほども離れている必要があった。
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