レッスンの根底にあるものを見つめだし始めたこと

私は1976年の6月に初めて「からだとことばの会」でレッスンに参加しました。3年後の1979年の秋からは竹内演劇研究所の「からだとことばの教室」の講師としてレッスンをやるようになりました。今から考えるとあまりに早すぎるようにも思えるのですが、その当時は全く夢中になって楽しく取り組んでいました。竹内さんは宮教大の教師になったので、抜けることが多くなり、私や高田豪さんがレッスンを担当することが多かったのです。

 このレッスンをやるようになったプロセスですが、全く何か教えられたというものではなく、竹内さんがレッスンをやっている場に立ち会って竹内さんのやっていることを見よう見真似で始めたわけです。
 ある意味では猿真似ではないかと思うこともあったのですが、哲学者の木田元さんとの対談「二十一世紀身体と哲学」などを読むと、それが学ぶということの基本的なものであると思いました。
 また、メルロ・ポンティの「幼児の対人関係」などを読むと、二人で一緒の身体図式の中で、自と他ー対人意識が作られることを述べています。ここでも真似るということは基本的なものであることが述べれているように思います。

 竹内さんのレッスンの体験と、それからそれ以外の人のものも多少は参考にして、自分のレッスンをやってきました。中核にあるのは竹内さんとのレッスンの体験です。その体験で得られた「からだ」でレッスンをやってきたのです。その竹内さんとのレッスンで得られた「からだ」で何十年もレッスンをやってこられたのです。 レッスンそのものがどんなものなのか、自分であまり吟味したり、考えたりすることなしでレッスンがやれてこれたのです。
 もちろんレッスンをやる場は自発的にお金を払ってくる場ですから、何かそれなりのものがなければ続けることはできなかったでしょう。
 また、自分なりに考えて変えていったところはあります。

 しかし、そのレッスンそのものがどのようなものの上に成り立っていることを突き詰めて考えたことはないのです。竹内さん自身がその時その時探っていることことばにしていますが、それがどういうことなのだろうと追いかけるだけで精一杯でした。
 竹内さんが考え詰めたレッスンの上に無自覚に乗っかっていました。
 レッスンの内部から出て外から見てみることを始めると、そこには思わず面白い光景が広がっています。

 (ここで「からだ」と述べたことはいずれ詳しく書きたいと思っています。)

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