研究ノート2「お互いが師であり、弟子であることがくり返し立ち現れる場、コミュニティ」としての「竹内敏晴研究」

 「『出会う』ということ」から気になるところの抜き書きのつづき

  イバン・イリイチのことばの繰り返しの引用 イエスについての言及 道元についての言及 禅家への言及

 スピリチュアリティについての再三の言及が目立ってきている。

 「わたしは真剣に『自我のゼロ地点』ということを考えたい。魯迅の生き方を考えると、マイナスの自我がプラスを含みつつ、自らをそして世界を見つつ立っている姿勢を思い浮かべることができる。『禅』で言う『悟り』や、西田幾多郎の『純粋体験』、ほかにもいろいろ考えることができるけれども、自分の閉じ込められている空間に気がつくと同時に、突破して出ていく、あるいは出てしまっている、一人の人間として立っていく通過地点として、『自我のゼロ地点』を仮設してみたい。」(p209)

 「人が今までの自分の枠から外へ踏み出す。そのとき裸である。このとき自我はプラスでもマイナスでもない、ゼロ地点に立っている。そして、世界が違って見える。そこから踏み出して行ったときに、何か新しい自我が生まれてくるだろう。」(p215)

 「・・・『木を見ていると木が自分に話しかけてくる』ということばがあって、初めて読んだときはどういうことなのかなと思ったが、実際そうなのだ。一本の黒松が話しかけている。そういう言い方でしかできないような形でこちらに入ってくる。すでに黒松は『黒松』ではない、『あなた』である。そういうプロセスが起こった人がほかの人と向きあうとき、からだからなにを語りかけられるか・・・・・・そういうプロセスをこれからわたしは一人でも二人でも、とにかく今まで思っていたよりももう一歩、もう一歩進んで働きかけて、自分も動きながら変わっていきたいと思っている。
 つけ加えて言っておきたい。花を見たときに、花が『笑う』。まざまざと花である。自分というものはそのとき消えている。」(p216)

 「禅宗では師資相承を言う。弟子がいかなる地獄にあっても、そこに立ち会い問いを発するものを師というのであろう。出会うとき人は白紙になり、裸になる。逆に言えば、裸になるためには師がいるのだ。それを繰り返すことを悟りといい、意識のゼロ地点といい、無と言うことに至るであろう。
 しかし、師とはファンクショナルな関係であって、時に八歳の幼子が八十歳の老爺の師となりうる。とすれば、お互いに師であり、弟子であることがくり返し立ち現れる場、あるいはコミュニティがありうるだろう。」

 この「竹内敏晴研究」が「お互いに師であり、弟子であることが立ち現れる場、コミュニティ」であらんことを!!
 




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