ようこそ、「竹内敏晴研究」へ! どちらかと言うと「竹内敏晴探求」の方がいいような気がしたのですが、何だか「探求」ではおさまりが悪く、「研究」にしました。内実は「探求」に近いと思います。しかし、「研究」の方がいい場合もあると思います。
たくさんの人が竹内敏晴さんの実践に参加しました。私もその中の一人です。非常に大きな影響を受けました。あまりにも大きな影響を受け、存在の根底から変わるという体験をしました。
問題はその体験がどのようなものであるのかということを認識することが困難なことを含んでいるということです。その体験をどう取り扱はその人個人に任され、ほとんどほかの人と共有されることはありませんでした。「レッスン」の場で体験をしたことが日常の生活の中にどのように統合されていくのかということも、自覚的に考えられてきたことがないように思います。
竹内敏晴さんはその都度レッスンをことばにして書いてきています。しかし、レッスンに参加した私たちにも分からないことがたくさんあります。
竹内さん自身も「わたしはいつも実践が先に歩いていて、はるか後でやっと気づくのだ。」と述べているところが、「『出会う』ということ」にあります。そしてこの認識がはっきりこのような形で述べられたのもはるか後、最後の著作の中でした。
私もレッスンの中で竹内さんの言っていること分からないことがたくさんありました。しかし、それをその時点では分からないものだと思っていました。大体10年ほどしないと分からないことも多かったような気がします。
レッスンで起こったことが何であるのかということもその時には分からないことが普通でした。何かが生じた。何か起こったということははっきりしているのですが、それがどんなものなのであるかは分からないのです。
しかし、レッスンをやって何か変わるのです。存在のありようが自覚されるようになり、存在のありようが根底的に変わっていったように思います。
そしてそのいくつかの変容が何であるかということははっをきり分からないのです。
それをそれぞれその人がその時の自分の持っている枠組み(世界観)で理解・解釈する以外の方法がなかったのです。
奇妙なことにレッスンを体験した人の報告がほとんどありません。竹内さんはあれほど苦労してことばを紡ぎ出しているのに比べて、レッスンに参加した人はその体験をほとんどことばにしていないのです。
これには様々な理由があるのだと思います。竹内さんのレッスンのありように問題があるのかも知れません。レッスンに参加した人の方に問題があるのかもしれません。
そういうことも含めてこの「竹内敏晴研究」では、レッスンをことばにすることを促し、レッスンを共有する場にしていきたいのです。
社会の中でレッスンを話すのはとても難しいという風に感じているのではないでしょうか?これにもいろいろな理由があると思いますが、それも含めて共同で考えていくことが必要です。
社会の中で通用することばを見出していく必要があると思います。(これも微妙な問題があり、単にそういう主張だけですまないことがありますが。)
たとえば、竹内さんの営為は主体としての「からだ」が出発点にあり、日本で長年探求されてきたものですが、久保隆司さんらの「ソマティック心理学への招待」の中には、全く言及がありません。
またこれはちよっと誤解を招くような言い方になると思いますが、竹内さんのレッスンをスピリチュアルティとして理解することもできると思います。最初の「ことばが壁かれるとき」では、明らかにそういう風にみられること拒否していますが、最後の「『出会う』ということ」でははっきりとスピルチュアルなものに触れています。
レッスンに参加したものから言うと体験の中のある部分はスピルチュアルなものであるとしないと分からない部分が残るのです。否、竹内さんのレッスンは「空」(グラウンド)の上に顕現するものを見ていたというこということもできると思います。
また、宗教学者の島薗進さんの「スピリチュアリティの興隆」には新霊性文化・運動として様々な活動が取り上げれていて、それらを見ると竹内さんのレッスンも全くその只中にあったと思うのですが、そこでは全く触れられていません。この「新霊性文化・運動」ではきわめてスピリチュアリティを広く多様な形で紹介しています。
これらは日本の学問的な伝統にほとんど竹内さんの仕事が理解されていないことを示しているように思えます。これにはそれなりの理由があるのだ思います。今はそれには触れません。
この「竹内敏晴研究」は、竹内敏晴さんのレッスンそのものを一から見直すことと、それぞれレッスンに参加した人たちの体験が報告されることを促し、それらを共有することで次の世代にレッスンを手渡していくことを考えています。
それぞれの記事のコメントを入れることもできますが、「竹内敏晴研究」の投稿者になることもできます。レッスンに興味のある方には様々な形で開かれています。
たくさんの人が竹内敏晴さんの実践に参加しました。私もその中の一人です。非常に大きな影響を受けました。あまりにも大きな影響を受け、存在の根底から変わるという体験をしました。
問題はその体験がどのようなものであるのかということを認識することが困難なことを含んでいるということです。その体験をどう取り扱はその人個人に任され、ほとんどほかの人と共有されることはありませんでした。「レッスン」の場で体験をしたことが日常の生活の中にどのように統合されていくのかということも、自覚的に考えられてきたことがないように思います。
竹内敏晴さんはその都度レッスンをことばにして書いてきています。しかし、レッスンに参加した私たちにも分からないことがたくさんあります。
竹内さん自身も「わたしはいつも実践が先に歩いていて、はるか後でやっと気づくのだ。」と述べているところが、「『出会う』ということ」にあります。そしてこの認識がはっきりこのような形で述べられたのもはるか後、最後の著作の中でした。
私もレッスンの中で竹内さんの言っていること分からないことがたくさんありました。しかし、それをその時点では分からないものだと思っていました。大体10年ほどしないと分からないことも多かったような気がします。
レッスンで起こったことが何であるのかということもその時には分からないことが普通でした。何かが生じた。何か起こったということははっきりしているのですが、それがどんなものなのであるかは分からないのです。
しかし、レッスンをやって何か変わるのです。存在のありようが自覚されるようになり、存在のありようが根底的に変わっていったように思います。
そしてそのいくつかの変容が何であるかということははっをきり分からないのです。
それをそれぞれその人がその時の自分の持っている枠組み(世界観)で理解・解釈する以外の方法がなかったのです。
奇妙なことにレッスンを体験した人の報告がほとんどありません。竹内さんはあれほど苦労してことばを紡ぎ出しているのに比べて、レッスンに参加した人はその体験をほとんどことばにしていないのです。
これには様々な理由があるのだと思います。竹内さんのレッスンのありように問題があるのかも知れません。レッスンに参加した人の方に問題があるのかもしれません。
そういうことも含めてこの「竹内敏晴研究」では、レッスンをことばにすることを促し、レッスンを共有する場にしていきたいのです。
社会の中でレッスンを話すのはとても難しいという風に感じているのではないでしょうか?これにもいろいろな理由があると思いますが、それも含めて共同で考えていくことが必要です。
社会の中で通用することばを見出していく必要があると思います。(これも微妙な問題があり、単にそういう主張だけですまないことがありますが。)
たとえば、竹内さんの営為は主体としての「からだ」が出発点にあり、日本で長年探求されてきたものですが、久保隆司さんらの「ソマティック心理学への招待」の中には、全く言及がありません。
またこれはちよっと誤解を招くような言い方になると思いますが、竹内さんのレッスンをスピリチュアルティとして理解することもできると思います。最初の「ことばが壁かれるとき」では、明らかにそういう風にみられること拒否していますが、最後の「『出会う』ということ」でははっきりとスピルチュアルなものに触れています。
レッスンに参加したものから言うと体験の中のある部分はスピルチュアルなものであるとしないと分からない部分が残るのです。否、竹内さんのレッスンは「空」(グラウンド)の上に顕現するものを見ていたというこということもできると思います。
また、宗教学者の島薗進さんの「スピリチュアリティの興隆」には新霊性文化・運動として様々な活動が取り上げれていて、それらを見ると竹内さんのレッスンも全くその只中にあったと思うのですが、そこでは全く触れられていません。この「新霊性文化・運動」ではきわめてスピリチュアリティを広く多様な形で紹介しています。
これらは日本の学問的な伝統にほとんど竹内さんの仕事が理解されていないことを示しているように思えます。これにはそれなりの理由があるのだ思います。今はそれには触れません。
この「竹内敏晴研究」は、竹内敏晴さんのレッスンそのものを一から見直すことと、それぞれレッスンに参加した人たちの体験が報告されることを促し、それらを共有することで次の世代にレッスンを手渡していくことを考えています。
それぞれの記事のコメントを入れることもできますが、「竹内敏晴研究」の投稿者になることもできます。レッスンに興味のある方には様々な形で開かれています。
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