私は竹内敏晴さんと離れている必要がありました。
最初はレッスンを始めてから5年目でした。湊川高校での上演の最後に、舞台上から竹内敏晴さんを呼び出し、「竹内さん、あなたはなぜ湊川へ来るのですか?」と問いました。竹内さんは「分からない、分からないから来ている。」と答えました。
私は、「竹内さんは分からないんだ。私たちからだのメンバーのために来ているのではないのだ。」と思いました。
その時竹内さんから心理的に離れました。それまでは全面的に竹内さんを信じて頼り切っていました。どんなことをしても受け入れてくれるという途方もない体験をしていました。この時の私の行動はある見方をすれば、「芝居」をぶち壊したと言えるのかもしれませんが、私は芝居をやっているつもりは全くありませんでした。私にとっては「レッスン」でした。この時も、竹内さんは何らその後私に対する関係が変わりませんでした。
しかし、この時から私は自分なりにやらないといけないのだと歩き始めました。それは竹内演劇研究所の中で、「クラウン」をやるクラスを作ることにつながりました。
翌年の湊川公演には、前年迷惑をかけたという気持ちがあり参加しました。しかし、それ以後は湊川上演には加わらないことにしました。南葛飾高校でやっていた演劇のレッスンの手伝いに行くこともやめました。
私は、レッスンを始めてから8年間で(スタッフとしてレッスンをやることも私にとってのレッスンだった。)レッスンが一区切りしたように感じました。もうこれ以上やることはないと思ったのです。
そして、研究所を抜けて、それまでの体験をことばにすることに専念しました。それが終われば、いろいろな人種が混じって生きているところへ行きたいという思いで、ニューヨークへ行こうと思っていました。
最初はレッスンを始めてから5年目でした。湊川高校での上演の最後に、舞台上から竹内敏晴さんを呼び出し、「竹内さん、あなたはなぜ湊川へ来るのですか?」と問いました。竹内さんは「分からない、分からないから来ている。」と答えました。
私は、「竹内さんは分からないんだ。私たちからだのメンバーのために来ているのではないのだ。」と思いました。
その時竹内さんから心理的に離れました。それまでは全面的に竹内さんを信じて頼り切っていました。どんなことをしても受け入れてくれるという途方もない体験をしていました。この時の私の行動はある見方をすれば、「芝居」をぶち壊したと言えるのかもしれませんが、私は芝居をやっているつもりは全くありませんでした。私にとっては「レッスン」でした。この時も、竹内さんは何らその後私に対する関係が変わりませんでした。
しかし、この時から私は自分なりにやらないといけないのだと歩き始めました。それは竹内演劇研究所の中で、「クラウン」をやるクラスを作ることにつながりました。
翌年の湊川公演には、前年迷惑をかけたという気持ちがあり参加しました。しかし、それ以後は湊川上演には加わらないことにしました。南葛飾高校でやっていた演劇のレッスンの手伝いに行くこともやめました。
私は、レッスンを始めてから8年間で(スタッフとしてレッスンをやることも私にとってのレッスンだった。)レッスンが一区切りしたように感じました。もうこれ以上やることはないと思ったのです。
そして、研究所を抜けて、それまでの体験をことばにすることに専念しました。それが終われば、いろいろな人種が混じって生きているところへ行きたいという思いで、ニューヨークへ行こうと思っていました。
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