研究ノート3 「じか」を考える

 「『出会う』ということ」からの引用を続けながら考える。

 「この間にあった厚いガラスがいっぺんにふっとんでしまった。じかに、パッとわたしが相手に呼びかける。(と、目の前に『ちょっと来てみて』)。ニヤニヤとして、ほら動くでしょ(笑い)。こういうことがあり得るっていうことがその時、初めてわかったんですよ。つまり、じかに働きかけると、じかに応えてくれるという感じが。とりあえず、「じか」ということがわかった、という言い方でまとめておきます。」(p58)

 『それからは、毎日、お祭りみたいだった。朝起きて、外へ行ってね、誰かに会わないかなあって。きた!『やあ、こんにちは』と言うと、『はあ、こんにちは』と返ってくる!わーっできたという感じで。とにかく、自分のことばが向こうに届いたとわかる、目に見える。相手のからだの中にしみこんでいく、すると、ふっと相手のからだが変わって、息づかいが変わって、こっちに声がくる。来た、と思った途端に自分のからだがはずむのがわかる。」(p59)

 「『じか』ということを別の視点から言うと、『距離がなくなる』ということです。子どもがつまずいてよろっとする。『危ない!』と叫びますね。『危ない!』と言った瞬間に、わたしは思わず手をさし伸べている。そこ、子どものところにいるわけです。そういう意味で、自然科学的な均質な空間の距離ではなくて、縦の関係ですね。相手との隔たりというか、奥行きというか、関係の中の距離といってもいいのですが、これはまったく変動する。」(P62)

 私は「じか」ということを、これまであまり「じか」ということばで考えたことはなかった。私の感じ方を今簡単に述べることはできない。
 今野哲男が「竹内敏晴」の中で、「竹内レッスン」についての真木悠介のことばに触れている。「人間は変わることができるか」、「人間はどこから変われるか」という・・・問いに答え、「問いを問うその仕方の、驚くべき具体性にある。」
 この具体性というのが一つのキーワードである。それは「じか」に働きかけるというところからきている。
 私がレッスンを始めた頃、時々竹内さんにレッスンを見てもらった。すると、竹内さんは私のやっていることをより単純なことに戻すように思われた。そうすると、その働きかけによって、メンバーのからだが「必ず」変わっていくように思われる。竹内さんの働きかけは、相手との「じか」の応答として行われている。
 私がやっていたことは、私の思いが先行して、働きかけが思いに基づいて行われていた部分があることが暴露されたと言えるだろう。
 竹内の働きかけは必ず相手のありようを変える。真木悠介のいう「具体性」とはそのことを表しているのだろう。そして、それが「じか」ということに関わっているよう思われる。

 一方で、竹内は人と人が出会うとは、「火花が散るような」、「花火が散る」と表現している。
 三井悦子は「『じか』『からだ』そして『人間』について」の中で、「じか」についての、竹内敏晴のメッセージを紹介している。
 「……簡明にいえない。『じか』とは体験であって、思想ではなく、ある境地でもないということです。だから出来事として語ることはできるが、常在することとして言葉で説明することはできない。また、ひとりで訓練して到達することもできない。他者と出会う一瞬に現れる現実にすぎない。・・・・・・」

 前者の「じか」はある程度持続性があるように書かれている。しかし、後者の「じか」は一瞬のもの、「火花が散る」ようなものとして表現されている。

 「じか」ということについて、より考える必要がありそうだ。

 

 

 











 
 

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