研究ノート
竹内敏晴の「『出会う』ということ」の中に、「ことばが劈かれるとき」を吟味するを副題とした章がある。その中で気になるところをいくつか取り出してみる。
「・・・・劈かれたのは、今気がついてみれば、『ことば=声』ではなかった。外の風に吹きさらされて立っていたのは『からだ』、叫びを発出する基盤、ことばを生み出す源、もう一つ正確に言えば、この時点においては、『言語以前のからだ』であった、ということが、今ようやくはっきり見えてきている。」(p84)
「いきなり頭蓋骨がびーんとした。・・・・無我夢中。何がおこったのか、よくわかっていない。まだ自分がやっていると気づく前の、ただそういう動きだけがいきなりおこってきている。西田幾多郎ふうに言えば『自も他もない』、純粋体験と言っていいかもしれない。・・・・・・自分が世界の中に立っているーいや、そこまでいかない。まだ世界があるとか声があるとかまで行かない。自覚にまでならないけれども、どこかで感じ始めている。」(p89)
「……『わたし』があるとか『世界』があるというふうに明確に存在者を区別するのではなくて、その始原のところ、『あるということがあり始める』(p91)
「その時、『場』に人が入ってきた。この時はまだ人影、うまい言葉だとおもう、影なのだ。実在感以前に、人が出てきたということだけはわかる。・・・」(p92)
「・・・相手という人間がくっきり現れてきてはいない。柔らかく重い塊みたいなものが響き合う手ごたえみたいな形であって、、波動が応えあっている。『わたし』というものはまだない。からだと声が一つになって向こうに動くと向こうが動いて、今度はこちらが応えてというか、響き合っている。
そのときに、今まで自分はこういう世界にいなかったということを、どこかで感じている。新しい世界。そして向こうとこちらとが、動いてこたえ合っている場」(p94)
「二日前には、自分は、おずおずと相手と距離をはかって、出ない声を必死に出そうとしたり・・・、そのときは相手と隔たられた『わたし』というものを強く意識していたが、その『わたし』はもうない。相手と自分との間にあった距離はー壁と言いてもいいし裂け目といってもいいーなくなってしまって距離はゼロになって、じかに動けばじかに答えてくれるということがそこに成り立っている。…動く無といったようなものが動いている。」(p95)
「・・・『見えないからだ』。動いている『いのち』ー原義に従えば『い』は息、『ち』は勢いだから『息の勢い』-が『あちら』とひびきあい、この場が生きて動く。仏教で『一味平等』とはこの世界か、と思う。・・・・・・、『ある』は実体ではない。『無』から生成する。『あなた』は虚無から立ち現れる。わたしが目覚めなければ『ある』はない。むしろ、虚無あるいは意義を拡大して『空』が、初めてわたしに現れ始めたといってよい。」(p101)
これは仏教でいう「空」ととらえていいのだろうか?そうだとすると竹内さんのレッスンは「空」の基底に顕現するもの(色)を見ていたということもできるだろう。
竹内敏晴の「『出会う』ということ」の中に、「ことばが劈かれるとき」を吟味するを副題とした章がある。その中で気になるところをいくつか取り出してみる。
「・・・・劈かれたのは、今気がついてみれば、『ことば=声』ではなかった。外の風に吹きさらされて立っていたのは『からだ』、叫びを発出する基盤、ことばを生み出す源、もう一つ正確に言えば、この時点においては、『言語以前のからだ』であった、ということが、今ようやくはっきり見えてきている。」(p84)
「いきなり頭蓋骨がびーんとした。・・・・無我夢中。何がおこったのか、よくわかっていない。まだ自分がやっていると気づく前の、ただそういう動きだけがいきなりおこってきている。西田幾多郎ふうに言えば『自も他もない』、純粋体験と言っていいかもしれない。・・・・・・自分が世界の中に立っているーいや、そこまでいかない。まだ世界があるとか声があるとかまで行かない。自覚にまでならないけれども、どこかで感じ始めている。」(p89)
「……『わたし』があるとか『世界』があるというふうに明確に存在者を区別するのではなくて、その始原のところ、『あるということがあり始める』(p91)
「その時、『場』に人が入ってきた。この時はまだ人影、うまい言葉だとおもう、影なのだ。実在感以前に、人が出てきたということだけはわかる。・・・」(p92)
「・・・相手という人間がくっきり現れてきてはいない。柔らかく重い塊みたいなものが響き合う手ごたえみたいな形であって、、波動が応えあっている。『わたし』というものはまだない。からだと声が一つになって向こうに動くと向こうが動いて、今度はこちらが応えてというか、響き合っている。
そのときに、今まで自分はこういう世界にいなかったということを、どこかで感じている。新しい世界。そして向こうとこちらとが、動いてこたえ合っている場」(p94)
「二日前には、自分は、おずおずと相手と距離をはかって、出ない声を必死に出そうとしたり・・・、そのときは相手と隔たられた『わたし』というものを強く意識していたが、その『わたし』はもうない。相手と自分との間にあった距離はー壁と言いてもいいし裂け目といってもいいーなくなってしまって距離はゼロになって、じかに動けばじかに答えてくれるということがそこに成り立っている。…動く無といったようなものが動いている。」(p95)
「・・・『見えないからだ』。動いている『いのち』ー原義に従えば『い』は息、『ち』は勢いだから『息の勢い』-が『あちら』とひびきあい、この場が生きて動く。仏教で『一味平等』とはこの世界か、と思う。・・・・・・、『ある』は実体ではない。『無』から生成する。『あなた』は虚無から立ち現れる。わたしが目覚めなければ『ある』はない。むしろ、虚無あるいは意義を拡大して『空』が、初めてわたしに現れ始めたといってよい。」(p101)
これは仏教でいう「空」ととらえていいのだろうか?そうだとすると竹内さんのレッスンは「空」の基底に顕現するもの(色)を見ていたということもできるだろう。
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