「竹内敏晴研究」の立ち上げに臨む私の思い(せとじま・ばん)

「竹内敏晴のいまを観てみたい」それが「竹内敏晴研究」の立ち上げに臨む私の思いです。


竹内敏晴によって蒔かれた種子が、あるいは劈かれた「いのち」が、今現在一人一人の個人の中にどのように息づいているか、それを私は観てみたいのです。


私にとって「竹内敏晴研究」は「いまを生きる竹内敏晴」の研究です。竹内敏晴はすでに亡くなりました。けれども竹内敏晴との出会いを通じて私たちに引き渡された「いのち」の流れは、目には見えないながらも、伏流水のように私たちの中にいまだ流れ続けていることでしょう。


竹内敏晴の「いのち」の流れの大きさ・深さ・激しさ故に、私たち一人一人の中に竹内との出会いによって劈かれた「いのち」の流れは、ときには世間と衝突し、あるいは社会からの突出を余儀なくされたこともあったでしょう。


けれども私たちが今現在もこうして生きているということは、自らの「いのち」の流れが閉ざされることなくこれまでの人生を乗り越え、いまだ流れつづけているということです。


私が観てみたいのはここの所です。竹内敏晴という存在や彼からの影響を、自らの過去の体験や知識、既成の研究方法によって意味づけすることに、わたしは興味がありません。学会や研究機関・団体、あるいは資料館や博物館のような役割を「竹内敏晴研究」に当て、竹内敏晴の事跡を浮かび上がらすことにも必要を感じていません。


竹内敏晴と出会った、あるいは影響を受けた一人一人が、自らを貫き流れつづける自らの「いのち」を深く見つめることで、竹内敏晴という存在の意味や意義は自ずと浮かび上がってくることでしょう。個人の「いのち」は川の流れや、樹木の枝が成長につれて枝分かれするように、一つの全体の一部分なのですから。


さらに、竹内敏晴レッスンのもつ独自性、それは同時に普遍性に通じるものと私は思っています。時代の振り子がその向きを大きく転回しようしている昨今、時代の変化に流されることなく、「いのち」の未来を指し示す手がかりが竹内レッスン(竹内敏晴の実践)にはあると思うのです。


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「竹内敏晴研究」立ち上げの私の所信表明になりました。あえて「研究会」としなかったことには理由があります。それは「竹内敏晴研究」が場を現すものとしたいからです。それぞれの思いを、会や団体の趣旨や決定に縛られることなく、自由に放り込める「場」。「竹内敏晴研究」を合言葉として、一人一人がその興味関心に基づいて、正直に自分の思いをさらす。


議論や対話・正解を求めるのではなく、それぞれの深い思いをそのまま放り込んで行く「場」としてネット上にブログを立ち上げたいと思ったのです。インターネットの時代だからこそできることだと思うのですが、さまざまな人たちの投稿の結果として、竹内敏晴の「いのち」がブログの中に息づいてくる。


竹内敏晴あるいは竹内レッスンを語る難しさは、彼が常に「いまここ」に足場を置いていたことに依ることでしょう。「いまここ」とは、常に流動し止むことのない「いのち」の涌きいずる「場」です。このブログが、そんな「いのち」の場に花開く、一人一人の「ことば」で満たされることを私は願っています。


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「竹内敏晴研究」のブログに、自ら投稿を希望される方がいらっしゃれば、メールtakeuchi.toshiharu.kenkyu@gmail.com宛てにご連絡ください。投稿の手続きをご案内します。


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最後になりますが、簡単に自己紹介をさせていただきます。

瀬戸嶋 充・ばん と申します。

私は1981~88年の7年間、竹内演劇研究所に於いて竹内敏晴の活動にかかわり、竹内演劇研究所解散のあと人間と演劇研究所を創設。その後現在に至るまで「からだとことばのレッスン」を自ら学びつつ実践を繰り返してきました。

私の近況は、人間と演劇研究所ブログhttp://karadazerohonpo.blog11.fc2.com/ に公開しています。ホームページhttps://ningen-engeki.jimdo.com/とあわせてご参照ください。


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勝手ながらの長文にお付き合いありがとうございました。

コメント

  1. 「議論や対話・正解をともめるのではなく」とありますが、正解を求めるものでないということは分かります。議論や対話ということがどんなことなのかはっきり言うことはできませんが、バンの書いたものに私の思ったことを書くのはいけないことでしょうか?それは議論になるのか対話になるのか?
     非難ではなく、批判は必要なのではないでしょうか?
     少なくとも私は自分の書いたものに、他者が関わって一緒に考えてほしいのです。私一人では考えきれないところがたくさんあります。思い切り今自分の考えたことを書きたいと思っているのですが、間違ったことを言う可能性がたくさんあると思っています。そういう際に正当な批判は必要不可欠です。誹謗中傷ではなく相互批判は必要ではないでしょうか?

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